第19章 銀は血に濡れて 3


 考えるより早く、俺は動いていた。


 木箱を蹴り、男へ飛び掛かる。


 男が右手のグラディウスを振るったかと思うと、左肩に鋭い痛みが走る。しかし、空中に飛び出した今、後戻りなどできない。


 男は体をひねり、俺を振り払おうとする。させじと俺は、男の右腕と左肩を、それぞれ掴んだ。


 踏ん張りきれず、鞍に座る男の体がぐらりと傾ぐ。俺と男はもつれ合ったまま、落馬した。


 右肩が石畳に激突し、衝撃に一瞬、息が詰まる。


「トラトス!」


 視界の端で、無事に御者台に飛び移ったアマリアが、心配そうにこちらを振り向く顔が見えた。


「先に行け! こいつは、俺が足止めする!」


 俺はアマリアに一方的に怒鳴る。俺の手を振り払おうと暴れる男とみ合っているせいで、振り返る余裕すらない。


 俺と男は主導権を得ようと、目まぐるしく上下を入れ替えながら、石畳を転がった。


「安全な場所に荷馬車を移したら、すぐに迎えに来るわ! 死体になっていたら、承知しないわよ!」


 アマリアが厳しい声で命じ、ぴしりと手綱を鳴らしてを馬を走らせる。勿論もちろん、死ぬつもりは毛頭ない。こんな陰鬱いんうつ曇天どんてんの下、誰にも看取られずに若い身空で死ぬなんて、御免だ。


 男が右足を折り曲げ、俺の腹を蹴ろうとする。俺はぱっと男から身を離すと横転し、男から距離をとって立ち上がった。


 男と距離をとって初めて、俺は左肩の出血に気がついた。男に掴みかかった際に斬られたに違いない。


 まるで、焼きごてを押されたかのように傷口が痛む。流れ出した血で濡れたテュニカの袖が、べったりと肌に張りついて、気持ち悪い。


 俺も手負いだが、相対する傷の男もまた、息が上がり、髪も服も、乱れに乱れていた。落馬の際、男のほうが下になったのだ。無傷でいるはずがない。


 俺は初めて真っ正面から、傷の男の顔を見た。年齢は三十過ぎだろう。背の高い恵まれた体格と、色素の薄い肌は、俺と同じゲルマン系の血を引いていると、一目でわかる。


「一つ、聞きたいことがある」


 俺はすぐに動けるようにグラディウスを構え、男を睨みつけながら、口を開いた。


「今更、何故アルビヌス帝に加担した、なんて下らない質問を、するなよ」


 男があざけりの笑みを浮かべる。


「お前の矜持きょうじが傷つけられた件なんて、どうでもいい」


 俺は侮蔑の気持ちを隠さずに吐き捨てた。


「俺が聞きたいのは、レプティス・マグナで殺人を犯した男を、殺した理由だ」


「連れの娘も、さっき同じようなことを言っていたな。まさか、レプティス・マグナで会った奴とパンノニアで再び会うとは、予想だにしていなかったぞ」


正義の女神ユースティティアは、執念深いのさ」


 俺は自分自身を棚上げしてうそぶいた。男は馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべる。が、グラディウスを構える姿に隙はない。


「理由なんて、単純だ。あの男は、途中で怖気づいて、贋金を持って北アフリカに逃げ出した。しかも、贋金をそっくり盗まれた間抜け野郎だ。始末しない理由が、どこにある?」


「あんたにとっては、当然の行いだっただろうさ」


 俺はグラディウスの柄を握り締めた。


 今更、傷の男を断罪したところで、ミュルテイアとマルロスが生き返るわけじゃない。第一、殺した犯人も、傷の男とは別人だ。傷の男を捕えても、俺に着せられた殺人犯の汚名は消えない。


 だが、そもそも、贋金事件が起こらなければ、ミュルテイアもマルロスも、ブリタニア属州財務官のキリヌスも、死ぬ事態にならなかったのだ。


 俺自身は、セウェルス帝が勝とうが、アルビヌス帝が勝とうが、利害はない。だが、贋金などという卑劣な手段で帝位を手に入れようとするアルビヌス帝が、気に食わない。


 俺に権力があれば、アルビヌス帝を告発していただろうが、今の身では、こうして水際で陰謀を食い止めるしかない。


 俺は軽くかかとを浮かせて、グラディウスを構え直した。ブーツの底に打った滑り止めのびょうが石畳に擦れて、微かな音を立てる。


 下らないおしゃべりは終わりだと感じたらしい。男もまた、表情を引き締め、身構える。

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