第19章 銀は血に濡れて 4


 俺と男は、一定の距離を保ったまま、ゆっくりと円を描くように動く。と、裂帛れっぱくの声を発し、男が動いた。鋭い突きを、グラディウスで弾く。


 男の腕が浮き上がった一瞬の隙をついて、俺は男に肉薄し、突きを繰り出す。男は横に飛びすさって、グラディウスを避けた。

 

 俺には、悠長に勝負している余裕はない。

 男に飛びかかった際に斬られた左肩の傷からは、出血が続き、指先を伝ってぽたぽたと石畳に紅い模様を描いている。動く度に激しい痛みが走るが、問題は痛みではない。痛みなら、歯を食い縛って耐えられる。


 危惧きぐすべきは、体力の残り具合だ。まるで、流れ出る血と共に、身体中の活力も失われていくようだ。ゆっくりと己の身体が鉛の彫像に変わっていくような錯覚に囚われる。


 対する男は、短い剣戟けんげきの間に、やけに息が上がっている。落馬した際に、どこか打撲か骨折をしたのか。何にせよ、お互いに短期戦にしたいところだ。


 お返しとばかりに、今度は俺から男に斬りかかる。男はグラディウスで俺の攻撃を弾くと、俺の腕の下をくぐるようにして、グラディウスを突き出す。


 俺は素早くグラディウスを引き戻すと、心臓に迫る切っ先を防いだ。


 早い決着を望んでいるのか、傷の男の攻勢は途切れなく続く。的確に急所を狙って繰り出される激しい攻勢は、少しでも気を抜くと、一瞬で命を刈り取られそうだ。


 次第に暗さを増してくる宵闇の中、お互いの顔さえ、闇の向こうへ沈み込みそうだ。打ち合っては離れ、再び交わるグラディウスの刃だけが、月明かりを反射してきらめく。


 ダヌビウス川を越えて吹きつける北風が、鋼と鋼がぶつかり合う音をちぎり飛ばすようにさらっていく。


 俺が吐く白い息を斬り裂くように、傷の男がグラディウスを振るう。

 飛びすさって避けようとした俺は、足元に隙間なく敷き詰められているはずの石畳を踏みそこねた。


 やばい、と思った時には、体勢を大きく崩して、尻餅をついていた。


 石畳についた左手が、ぬるりとした液体に触れる。俺の左肩から流れ落ちた血溜ちだまりで滑ったのだ。


 頭が冷静な判断を下す間にも、顔前に男のグラディウスが迫る。


 俺はできる限り身体をひねった。


 一瞬、右頬に冷たい刃が触れたかと思うと、灼熱しゃくねつの痛みに変わる。斬られた髪が幾筋か、風に吹き飛ばされて散っていく。


 尻餅しりをつき、俊敏に動けない俺に、男が追い討ちを懸ける。

 俺は男に足払いを試みた。かわした男のブーツに爪先がかすったが、男の動きは止まらない。


 俺が突き出したグラディウスを男が弾く。男の強い力に、思わず腕が浮き上がり、身体の前面が無防備に開く。


 好機に、男が微かに唇を歪めた。


 荒い息を吐く男と、目が合う。殺意にぎらつく男の目の奥には、決着の訪れを予感した暗い歓喜が浮かんでいる。


 渾身の力で、男が俺の心臓目がけてグラディウスを突き出す。


 俺は反射的に左手を払った。

 てのひらにべったりとついていた血が、男の目に飛び、視界を奪う。


 しかし、男の狙いは、一切ぶれない。


 あらがう間もなく、まるで吸い込まれるようにグラディウスの切っ先がテュニカの胸元を斬り裂く。

 固い音と共に、鋭い痛みが身体を貫く。


「!」


 予想外の事態に、男の動きが、一瞬、停止する。


 まるで、不可視の鎧に遮られたように、グラディウスの切っ先は、俺の心臓に届く前に止まっていた。


 何が起きたのかは、俺もさっぱりわからない。だが、今の好機を逃せば、もう後はない。


 俺は男の向こうずね渾身こんしんの力で蹴りつけた。


 不意を突かれた男の身体が、前によろめく。

 左手で男の外套がいとうを掴み、力任せに引きずり倒した。その反動で、体を起こす。


 体勢を崩して石畳につんのめった男の背中に、さっと馬乗りになる。男が抵抗するより早く、男のうなじにグラディウスの柄を叩き込む。


 意識を刈り取られた男が、がくりと石畳に突っ伏した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る