第10章 宿までは遠すぎる 3
激しかった雨は、少しずつ弱まってきている。
俺達は、玄関に青銅製のランプを灯した宿屋に飛び込んだ。一階にいた客達が、全身びっしょり濡れ鼠の俺達を見、ついでアマリアの美貌に気づいて、どよめく。
どんなみすぼらしい格好をしていても、内側から輝くようなアマリアの魅力は、隠しようがないらしい。
「おい! 馬を曳いてきてくれ! すぐに出発することになった」
俺は宿の奴隷を捕まえると、強い口調で命令した。その間にも、アマリアは二階の客室へ、荷物を取りに階段を駆け上っている。流石に、ストラの裾は下していたが、一階の客達は皆、呆けた顔で、駆け上がっていくアマリアの後姿を見送っていた。
俺もアマリアを手伝おうと、階段へ足を向けた途端、外へ出て行ったはずの奴隷が、悲鳴を上げて中へ飛び込んできた。
奴隷の後から入ってきた人物は、俺達を尾けていた二人の百人隊長だ。
二人の百人隊長は、俺を認めると、凄惨な笑みを浮かべ、腰のグラディウスを抜き放った。
客達が悲鳴を上げて立ち上がり、我先にと逃げ出そうとする。俺一人なら、客と一緒に逃げるところだが、二階にはアマリアがいる。逃げるわけにはいかない。
俺がグラディウスを抜くと同時に、百人隊長の片方が斬りかかってきた。訓練された無駄のない動きだ。
迫ってきた切っ先を、グラディウスで弾く。
濡れた服がまとわりついて動きにくい。だが、それは相手も同じだ。今の百人隊長達は非番で、鎧を着ていない。俺にも、まだ勝機はある。
「トラトス!」
階段の上に現れたアマリアが、百人隊長を目がけて、宿屋の備品の小さな壺を投げつける。狙い過たず顔面へ飛んだ壺を、百人隊長が払った。その隙をついて、俺は百人隊長の
「何をしているの! しっかりしなさい!」
すかさず、アマリアの
階段の上に、もう一人の獲物がいると知った百人隊長達は、女であるアマリアのほうが
「させるか!」
俺はグラディウスを突き出して、相手の動きを阻害すると、アマリアを守るべく、階段の前に陣取った。
俺を亡き者にしようと、殺意が籠ったグラディウスが間断なく襲い掛かる。
流石は、ローマ軍団の屋台骨といわれる百人隊長だ。息の合った連係は防ぐのが精一杯で、なかなか反撃の機会が掴めない。
「アマリア! 逃げろ!」
目の前の二人の百人隊長を倒さねば、脱出口はないと知りつつも、俺は後ろを振り返らずに叫んだ。
今は二人だけだが、いつ、増援の三人目が到着するかわからない。そうなれば、脱出は不可能だ。軍団兵達に囲まれ、血祭りに挙げられるだろう。
不意に、頭上でアマリアが動く気配を感じた。二人の百人隊長の攻撃を避けながら、何とか振り返ると、客室へ駆け込むアマリアの後ろ姿が見えた。
出口といえば、窓しかない客室へ逃げて、どうする気なのか。
「女のほうは、諦めたようだぞ。お前も諦めろ。今なら、一思いに殺してやる」
百人隊長が、唇を歪めて
「ふざけるな!」
俺は腹の底に湧き上がる怒りをぶつけるように、百人隊長が繰り出したグラディウスを、力一杯、弾き返した。
何故か、アマリアが逃げるのを諦めたのだという考えは、俺の頭には、これっぽっちも浮かばなかった。
アマリアは、そんな殊勝な性格ではない。己が納得しない限り、どこまでも突き進む気力に満ち溢れている。
「トラトス! 上へ!」
何にせよ、もし、アマリアが活路を見出したのなら、アマリアの手に乗ってみるのも悪くない。
問題は、俺が階段を上る隙を、二人の百人隊長が与えてくれるかどうかだ。
「ローマ軍団の百人隊長といえど、大した腕じゃないんだな。軍人でもない一般市民を、二人がかりで倒せないとはな」
俺は、嘲笑を意識的に浮かべて、百人隊長を挑発した。普段は部下の軍団兵に威張り散らしている百人隊長様だ。俺の安っぽい挑発に、二人の顔が怒気で赤く染まる。
「イスカ・シルルムから生きて出られると思うなよ!」
百人隊長が、グラディウスを大きく振りかぶる。
俺はぎりぎりまで粘ってから、刃を避けた。勢い余ったグラディウスが、階段の
体勢を崩した百人隊長がたたらを踏んで、もう一人にぶつかる。その様子をじっくり確認する間もなく、俺は身を翻していた。一足飛びに階段を駆け上る。
体勢を立て直した百人隊長達が、怒声を上げながら追ってくる。
うなじにちりちりと刺すような殺気を感じながら、俺は客室に飛び込んだ。
だが、アマリアの姿は、どこにもない。
扉と反対側の窓が大きく開かれている。
窓から見える空は、深い海のような黒と
「下よ!」
姿の見えないアマリアの声が再び響く。考えるより先に、体が動いていた。窓に駆け寄り、下を覗き込む。
アマリアの声が遠かったわけだ。窓の下には荷運び用の馬車が止まり、アマリアと一人の青年が俺を見上げていた。御者台には、もう一人、男が座り、手綱を握りしめている。
「跳んで! 早く!」
アマリアが厳しい声で俺を促す。窓から馬車の荷台までは、結構な距離がある。
俺が
「アマリア、端へ寄れ!」
叫んだ瞬間、背後で
ついさっきまで俺がいた空間を、鏡のように磨きこまれた短剣が貫いていった。
と同時に、荷台に飛び降りた両足に、痺れるような衝撃が走る。
俺が飛び乗るやいなや、馬車が勢いよく走り出す。俺は体勢を崩して、尻餅を搗いた。
「大丈夫? トラトス。どこか怪我は?」
アマリアが心配そうな声で尋ねる。これまで聞いた覚えがない、しおらしい声だ。声音にわずかに湿り気を含んでいる理由は、隣の青年のせいだろう。
「大丈夫さ。どこも怪我していない。このままじゃ、風邪を引きそうだけどな」
気を緩めた途端、濡れて冷えた体が、鉛のように重く感じる。気力を振り絞り、アマリアへ微笑んだ俺は、次いで、興味深そうな表情で俺を見る青年に視線を向けた。
「初めてお目にかかります、と挨拶から始めるべきですかね。ようやく、お会いできましたね、ウィリウス様」
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