第17章 幼少を過ごした地 2


 思惑混じりの俺の言葉を、アマリアは鼻先で笑い飛ばした。


「私の体調を心配をするくらいなら、自分の身を心配しなさい。のんびりと馬車を走らせていたら、御者台から蹴り落とすわよ!」


 アマリアなら、本当に俺を蹴り落として手綱を取り、馬車を思い切り走らせそうだ。


「俺達の旅は、ウィンドボナで終わるとは限らないんだ。ウィンドボナまでは、もう馬の交換所はない。馬に無理をさせるわけにはいかないだろ」


 俺は急いで答えて、アマリアの軽挙を押し留めた。


 ダヌビウス川南岸に東西に敷設された街道には、軍団兵が暮らす軍団基地の他にも、補助兵や騎兵の駐屯地や補給基地などがあるため、街道沿いには時折、町並みが見える。

 対して、視線を左手に向けた北側にあるものは、遥かに続く森の木々だ。


 パンノニアは、豊かな森に恵まれており、木材が主要な出荷物となっている。

 特に、ウィンドボナやカルヌントゥムの付近は、北のスエビクム(バルト)海沿岸で採れる琥珀こはくを運ぶ道と東西の道が交わる箇所で、ローマがパンノニアを征服する以前から、ケルト人やゲルマン人の村が建てられ、定期的に市が開かれていた。


 現在、ローマの軍団基地や砦が建っている場所の多くは、昔の村の跡地だ。

 ローマがダヌビウス川南岸を征服した現在では、市の立つ日には、北岸から蛮族がやって来て、琥珀や動物の毛皮などを売って、ローマの銀製品や葡萄酒、ガラス器などを買っていく。


 但し、ダヌビウス川の北側の岸辺は、ローマ暦九二五年(紀元一七三年)にマルクス・アウレリウス帝と蛮族との間に結ばれた講和条約によって、五ミリアリウム(約七・五キロメートル)の幅に渡って無人地帯が設けられている。南岸のローマ領には、北側を見張る塔がいくつも建てられているが、蛮族の襲来を予測するのは、困難だからだ。


 黒々と遥かに続く森が、いつもより盛り上がったかと思った時には、既に北岸一帯に蛮族が集結している。雪崩を打ってダヌビウス川を渡って攻め入ってくる蛮族を迎え撃つのが、ダヌビウス川を防衛するローマ軍団の役目だ。


「そう苛々するな。焦っても、何もいい点がないぞ。ほら、そろそろ、ウィンドボナのカナバエが見えてきた」


 俺は左手を手綱から離すと、街道の先に見えてきたウィンドボナの町並みを指し示した。カナバエとは、軍団基地の関係者が住む居住地区を指す。


「トラトス。あなた、この辺りには詳しいの?」

 まだ視界の先に微かに見える町並みを、ウィンドボナだと断言した俺に、アマリアが小首を傾げて尋ねる。


「俺の生まれ故郷は、遠パンノニア属州のアクインクム(後のブタペスト)の側だからな。ダヌビウス川沿いの軍団基地なんて、みんな似たようなもんさ」


 アクインクムは、遠パンノニア属州の州都で、東西に長く流れているダヌビウス川が、南向きに曲がる辺りに位置する軍団基地だ。町の構造は、ウィンドボナやカルヌントゥムと、ほとんど変わらない。


 俺の親父は、アクインクムに駐屯する第一アディウトリクス軍団の補助兵だった。マルクス・アウレリウス帝が指揮を執った戦役にも参加し、蛮族との何度もの激しい戦闘を戦い抜いた。ようやく戦役が終わり、あと数年の任期を務めれば、ローマ市民権を得て除隊できるという時に、蛮族の小競り合いで、命を落とした。


 連日の強行軍で、アマリアだけではなく、ウィリウスやクレメテスも疲労の色が濃いが、一行の中で、俺だけが比較的、体力が残っている理由は、ダヌビウス川沿いの厳しい気候の中で幼少期を過ごし、寒さに慣れているからだ。


 体の芯まで凍てつくような厳しい寒さは、俺がまだ幼く、両親が健在だった頃と、なんら変わっていない。流れ着いた北アフリカのレプティス・マグナでは、決して味わえなかった、しんと冷え切った澄んだ空気は、懐かしさすら覚える。


 まさか、パンノニアへ再び来るとは、考えてもいなかった。


 不意に、貧しさに敗れ、故郷を後にした幼い日の胸の痛みが、心の奥に蘇る。

 俺は、頭を一つ振って、感傷を振り払うと、手綱を握る手に力を込めた。

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