第18章 銀色の罠 1
ウィンドボナの名前の由来は、一説によると、美味い
食生活に葡萄酒が欠かせないローマ人は、ローマの支配が及ぶ範囲には、せっせと葡萄を植樹し、育たない地域には、葡萄酒を輸出した。おかげで、ローマ帝国内なら、どこであろうとも、葡萄酒が飲める。味までは保証できないが。
今の俺は、どんなに不味い安葡萄酒でも構わない気分だった。舌が火傷するほど温めてあれば、それでいい。欲を言えば
凍えるほど寒い日には、身体の中から温める
クレメテスが屋台で買ってきたムルスムは、文句なしの熱さだった。灼熱の塊が喉を流れ落ちたかと思うと、腹の中から、じんわりと温かさが身体全体へ広がっていく。
クレメテスは、ムルスムの他に、パンとチーズを買ってきていた。ルグドゥヌムからの旅路では、時間の短縮のために、朝食も昼食も、パンやチーズなどの簡単な食事を馬車で摂っていた。テーブルに向かって落ち着いて食べられるのは、夕食くらいだ。
ローマ人は、元々、朝食と昼食は軽く、夕食で豪勢に食べる食習慣だが、貧乏暮らしで耐性のある俺はともかく、豊かな生活に慣れたアマリアとウィリウスには、辛いだろう。
忠義者のクレメテスは、いつもどこで調達してくるのか、温かくて旨そうな食事を買ってくるが、時には、冷えきって固くなったパンしかない日もある。
今日は、ついていたらしい。細挽きの上質な小麦粉で焼かれたパンは、まだほのかに温かく、山羊の乳で作られたチーズも、こくがあって旨かった。
「お嬢さんも飲んだらどうだ? 身体が温まるぞ」
冷める前にと、俺はパンをちぎって口に運んでいるアマリアに、ムルスムを勧めた。
「いただくわ」
アマリアは、湯気が立つムルスムを一口
「寒い日は、温かいムルスムに限るわね」
アマリアの白い頬も形良い鼻の頭も、寒さのあまり、薄紅色に染まっている。指先を温めるように両手でコップを持ったアマリアは、もう一度、ゆっくりとコップを傾けた。
アマリアと分け合ってパンとチーズをかじっている間も、俺は馬車を操って、大通りをゆっくりと進んでいた。
市街地が形成されているウィンドボナは、宿駅や近隣の村と違って、流石に繁華だ。
大通りの両側には商店や食堂、屋台が並び、人通りも多い。街道と異なり、十字路や曲がり道のある町中では、なかなか馬車が進まない。俺達の馬車の前後も、荷車に挟まれている。荷車の荷台に積まれた木箱の中身は、おそらく軍団基地へ納品する物資だろう。
昼食時の今は、大通りの両側の食堂や屋台からパンを焼く香ばしい匂いや、ハーブや香辛料の香りが漂ってきて、食欲を刺激する。
道行く人々は皆、寒さを防ぐためにテュニカを重ね着している。ガリア風の襟の高い上着を着た者も多い。
軍団基地だけあって、非番らしい軍団兵の姿も、ちらほらと見える。手に包みを持っている軍団兵は、これからカナバエに住む家族の元へ帰るのだろうか。
軍規では、軍団兵や補助兵は、結婚を認められていない。だが、妻帯は黙認されていた。兵士としての任期が終わった後、正式に結婚し、大抵は自分が暮らしていた軍団基地の間近で、第二の人生を歩むのだ。
当然ながら、兵士は無闇に要塞から出られない。妻子の待つ家に帰られる機会は、非番の日くらいだ。
俺の親父も、非番の日には俺とおふくろが住む町外れの小さな家に、いそいそと帰ってきてくれていた。いつも、俺への土産に、蜂蜜が掛かった甘い菓子を持って。
まだ幼かった俺にとって、親父が帰ってきてくれる日は、何よりの楽しみだった。甘い菓子を買ってきてくれたからだけじゃない。剣の
故郷と似たウィンドボナの町並みのせいだろうか。次から次へと、親父との思い出が心に去来する。
親子三人で囲んだ温かな食卓。親父と馬に相乗りして出かけた遠乗り。給料をおふくろに渡す時の親父の誇らしげな顔。軍装に身を包んだ親父は、子供の俺でも惚れ惚れするほど、格好良かった。
不意にある考えが、雷鳴のように頭をよぎる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます