第9章 北の僻地の秋 3


 居酒屋の中は、俺が危惧していたよりも、小綺麗だった。入って正面奥の壁に、白と黒のモザイク画が描かれている。題材は、おそらく酒神バッコスだろう。だが、この絵を描いた絵師は、たわわに実る葡萄など見た経験もないに違いない。 


 バッコスが手に持つ葡萄は、どう贔屓目ひいきめに見ても、しなびているし、バッコス自身が纏う衣も、首回りに襟がついたブリタニア式のテュニカだ。


 左手には、ローマ式の大鍋を固定する穴が空いたカウンターがあり、地元民と思しき金髪で大柄な、髭を生やした店主が立っている。


 店主の後ろには簡素な棚があり、酒が入った壺や素焼きの器が、雑多に詰め込まれていた。棚の更に上の壁には、直接、チョークで葡萄酒の銘柄が書かれているが、俺が知っている銘柄は、一つとしてない。ヒスパニアで飲んだようなバルキノ産の名酒とは、ブリタニアでは出会えないと心しておいたほうが良さそうだ。


 壁には、明かり取りの小さい窓が幾つかあるが、曇天の下では、光よりも寒さのほうが多く入ってきている。壁には、窓の他に青銅製のランプが幾つか釘に掛けられているものの、油代をケチっているのか、さほど明るくはない。


 薄暗い店内を食器同士が当たる耳障りな音を立てて動いているのは、給仕女達だ。安酒場で働く女達の例に漏れず、この女達も客の求めに応じて、身を売るのだろう。給仕女達は襟付きのブリタニア式のテュニカを着ているものの、胸元は、これみよがしに開いている。


 新しい客の姿に、給仕女達はちらりと俺に視線を寄越したが、女連れだとわかると、すぐに興味を失ったように視線を外した。

 俺としても、給仕女達にお相手を頼む気は、芥子粒ほどもない。俺にだって、好みがある。薄汚れたテュニカを着た給仕女達は、皆、背だけは高いものの、痩せていて、雑に束ねられた髪には艶もない。

 まあ、ブリタニアのような、陰気でわびしい土地に何年も暮していれば、こんな女達でも、美の女神ウェヌスのように見えてくるのかもしれない。


 日が暮れるまでは、まだ間があるが、店は意外と混んでいた。百人隊長らしき男達三人で一つのテーブルを囲んでおり、他のテーブルには、行商人らしき男が景気の悪い顔を素焼きの器にくっつけるようにして、何やら食べている。別のテーブルでは、既に酔っぱらって赤い顔の四人の軍団兵が、給仕女達をからかっていた。


 俺が見つけた百人隊長は、最後に残ったテーブルに一人でついていた。どうやら、お仲間連中と飲む気分じゃないらしい。好機だと見てとった俺は、急いで店主が立つカウンターに近づいた。


「銘柄は何でもいい。葡萄酒の小壺と、コップを二つくれ」

「うちには、葡萄酒の他に、蜂蜜酒やケルウィシア(ビール)もある」

 髭面ひげづらの店主が、無愛想に言いながらも、床に穴を掘って固定させたアンフォラから、慣れた手つきで小壺に葡萄酒を移す。


「葡萄酒でいいんだ」

 どうせ不味い葡萄酒に決まっているが、大麦と一緒に何が混ぜ込まれているかわからないケルウィシアよりは数段マシだろう。文化人であるという誇りを持つローマ人は、普通、ケルウィシアなどは好んで飲まない。水で薄めた葡萄酒を飲む。

 俺は腰の財布から小銭を出して葡萄酒代を払うと、小壺とコップを受け取った。


「申し訳ないが、相席をお願いできるかな? 連れが椅子に座って、落ち着いて休みたいと言うもんで」

 俺は、百人隊長が一人で座るテーブルに歩み寄り、できる限り愛想よく声を掛けた。


 百人隊長は、鬱陶うっとうしそうな表情で顔を上げる。わずらわしそうに手を振り、俺を追い払おうとした。


 直後、百人隊長の動きが唐突に止まった。目を見開いた百人隊長の視線を辿り、後ろを振り向くと、フードを軽く持ち上げ、にっこりと微笑むアマリアの笑顔にぶつかった。


 魂を抜かれたように惚けている百人隊長に、笑顔のままアマリアが「相席しても、いいかしら?」と、俺と同じ問いを発する。


「も、勿論ですとも」

 司令官を前にした新兵のように、姿勢を正して、百人隊長が大きく頷く。放っておいたら、立ち上がってアマリアのために椅子を引きそうだ。

 俺は百人隊長が目立つ行動を取る前に、アマリアに目配せして、素早く席に着いた。その間も、百人隊長の視線は、アマリアの美貌から離れない。突然、目の前に現れたウェヌスに、頭の働きが止まってしまったらしい。


 おかげで俺は、百人隊長を無遠慮に眺め回す余裕ができた。百人隊長は軍人らしく、大柄で、がっしりした体つきだった。重ね着した厚手のテュニカの下は、たくましい筋肉に違いない。髪の色はくすんだ薄い茶で、目は青い。ブリタニアの住人によく見る目の色だ。

 もしかしたら、何代も前の先祖には、ローマ人がいたかもしれないが、ローマの血の名残は、とっくの昔に消え去っている。


 広大なローマ帝国には、帝国全体で三十個の軍団が辺境各地に配置されているが、軍団兵内における本国イタリア出身者の割合は、驚くほど少ない。


 俺のような属州民は、軍人に志願しても補助兵にしかなれないが、補助兵の兵役期間の二十五年を勤め上げれば、ローマ市民権を得られる。この市民権は世襲制のため、補助兵だった属州民の子孫は、ローマ市民権の所持が前提条件の軍団兵に志願できるのだ。


 兵役期間が過ぎた軍団兵は、大抵の場合、土地の女性と結婚し、軍団基地の近くに住む。つまり、辺境を守る軍団兵や補助兵は、その土地に住む者達で構成されているのだ。この百人隊長も、同じような境遇に違いない。


 ちなみに、大隊長や軍団長クラスの将校になると、各地の軍団へ転勤が多いが、一般の兵は、基本的に一度、所属した軍団から替わる事態はない。


「お見受けしたところ、百人隊長の位に就いてらっしゃるようだけれど、第二アウグスタ軍団に所属してらっしゃるのかしら?」


 アマリアが笑顔のまま、小首を傾げて尋ねる。百人隊長は、壊れた玩具のように、こくこくと何度も頷いた。


「そ、そうです。わたしは、第二アウグスタ軍団の第三大隊、第二百人隊の隊長です」

 軍団兵は、第一から第十の大隊に分かれ、一つの大隊は、六個の百人隊で構成されている。共和制の頃の百人隊は、名前の通り百人で構成されていたが、今では、百人隊と呼ばれているものの、一隊に所属する兵は八十人である。


 アマリアの魅惑的な笑顔さえあれば、俺が用意した葡萄酒は、全く不要らしい。手持無沙汰な俺は、コップの片方に小壺の葡萄酒を注ぐと、一口、飲んでみた。

 飲んだ瞬間、後悔する。水で薄めすぎな上に、酸っぱい。こんな不味い葡萄酒を飲むくらいなら、水を飲んだほうがマシだ。


 しかめ面の俺を無視して、アマリアは百人隊長に核心の問を放つ。


「第二アウグスタ軍団の財務官である、キリヌス様を、御存じ?」

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