第1章 獅子は空腹に吼える 2


 突然の明度の変化に目が追いつかない。明るい観客席から薄暗い通路へ入った途端、視界が閉ざされる。が、耳ははっきりと、衛兵の叫び声を捉えていた。


「十一番出入口だ! 急げ!」

「絶対に逃がすなよ!」


 後ろから陽光が差す階段を駆け降りる。観客席の喚声が通路に反響して、音の渦の中を進むようだ。


 階段を下りると、通路が伸びていた。通路の先に見えるのは、アーチ型に切り取られた白い光。円形闘技場の出口だ。

 闘技場の外へ出れば、海岸だ。砂浜に店を出す物売り達の人混みへ紛れ込める。


「見つけ次第、殺せ!」

「間違っても逃がすな!」


 衛兵達の殺気立った声。足音も近い。

 牢獄で痛めつけられた身体が、一歩を踏み出すたびに、悲鳴を上げる。だが、立ち止まってはいられない。


 闘技場の外へ飛び出した途端、海風が俺を包んだ。先ほどまで喚声に打ち消されて聞こえなかった波の音が、はっきり耳へ届く。


 闘技場の周りには、焼いた烏賊を売る屋台や、葡萄酒を売る屋台、近隣の農民がこの機会にひと稼ぎしようと、砂浜に広げた布の上に工芸品を並べた露店など、さまざまな店が並んでいた。

 午後から開催される剣闘士試合の為に、追加の葡萄酒のアンフォラを運んできた驢馬ろばや、剣闘士の話で盛り上がっている人々もいる。これから闘技場へ入るのか、海岸を歩いてくる家族連れや、奴隷に担がれてゆっくりと進んでくる臥與レクティカもあった。


 俺は、素早く辺りを見回した。海岸は見晴らしがいい。下手に走って逃げても、すぐに追手に見つかってしまう。


「こちらへ来なさい!」


 不意に、近くで鋭い声が響いた。声の方角を振り向くと、揃いのテュニカを着た六人の奴隷が支える臥輿が、今まさに、担がれようとしていた。開けた幕から、着飾った美しい少女が姿を見せている。


「早くなさい!」

 少女の姿をどこで見たのか思い出すより先に、声に鞭打たれたように身体が動く。

 俺は迷わず、少女の元へ駆け寄った。少女が、銀の腕輪を填めた右手を差し伸べる。


 少女の手を掴んで臥輿の中へ飛び込むのと、衛兵達が円形闘技場の出入口から出てくるのが、ほぼ同時だった。

 少女は素早く幕を閉じると、奴隷達に出発を命じた。奴隷達が立ち上がり、僅かに揺れたかと思うと、俺と少女を乗せた臥輿は、しずしずと海岸を進みだす。


「確か、あんたは……」

 俺は、この少女に会った覚えがある。名前は、アマリア。

「クッションの陰に隠れていなさい」

 話しかけた俺を制し、アマリアがぴしゃりと命じる。人に命令し慣れた口調だ。


 俺は、アマリアの手を掴んだままだったと気づいて、慌てて手を放した。まるで、新品のテュニカのように白くて、もぎたての林檎のようにすべすべした手だ。 こんな手に触れた経験は、二十三年間の人生で初めてだ。


「すまない」

 謝ると、アマリアの指示に従って、臥輿の後ろに小山のように詰まれた色鮮やかなクッションの中へ潜り込んだ。アマリアが、俺の身体が見えないように、クッションを積み直してくれる。


「あの、失礼致します。一つ、お伺いしたいのですが」

 不意に、臥輿の外から声が掛けられた。俺はクッションの陰で身体を縮ませる。伸ばしっ放しのひげがこすれて、くすぐったい。できる限り身体を小さく丸めながら、耳をそばだてた。


 アマリアは慌てた様子もなく、奴隷に命じて臥輿を止めると、小さく幕を開けた。

「何か?」

 アマリアの美貌に、臥輿に追いついた男が、息を飲む音が聞こえた。

「あ、あの。わたしは闘技場の衛兵なのですが、先ほど闘技場から、公開処刑するはずの罪人が逃げ出しまして」

 衛兵は、しどろもどろに説明する。答えるアマリアの声は、氷のように冷ややかだった。


「まあっ、それは大変ね。それで? 何のために、私の臥輿を止めたの?」

 一目で身分が高いとわかるアマリアの装いと立派な臥輿に気圧されながら、衛兵はもごもごと口の中で呟いた。

「あの、闘技場の外にいた商人が、こちらの臥輿に罪人が乗るのを見た、と……」

 説明しながらも、衛兵は、明らかに商人の証言を信じていないようだった。


 金持ちの少女が、自分の臥輿に酔狂にも薄汚い罪人を乗せるなど、実際に乗っている俺ですら、信じられないくらいだ。

 衛兵の言葉に、アマリアは高飛車な笑い声を立てると、幕を更に開いた。俺はクッションの陰で息を潜める。


「私が、罪人と同乗しているなんて、冗談としては面白いけれど。本気で言っているのだとしたら、相応の謝罪をしてもらわなくては、ね」

 話す内容は冗談めかしているが、アマリアの口調には苛立ちが混ざっている。

「もし、私の家族がこの場にいたら、直ちに総督に訴え出ているところよ」

 アマリアの声には、明らかに不快感と脅しが込められている。


 属州アフリカの州都は、ここレプティス・マグナから、何百ミリアリウムも東にあるカルタゴだ。州都に赴任している総督の顔など、一般民衆は見る機会などほとんどない。だが、属州総督と言われて、一介の衛兵が萎縮しないわけがない。


「し、失礼しました。お引き留めして、申し訳ありません」

 衛兵が砂を踏んで立ち去る音と、アマリアが幕を閉める衣擦れの音がした。再び、臥輿が進み始める。


「出てらっしゃい」

 子犬でも呼ぶような気軽さで、アマリアが呼ぶ。俺がクッションの山を崩すと、アマリアがこちらを向いて、真正面に座っていた。


 改めて見ても、美しい少女だった。年齢は十六、七歳くらい。裾に濃い緑と青の刺繍が入った菜の花色のストラを着、高く複雑に結い上げた栗色の髪を銀の髪飾りで留めている。真珠をあしらった耳飾りと腕輪も銀だ。


 だが、たとえ襤褸ぼろを纏っていても、アマリアの美貌は人目を引くに違いない。

 一番に印象的なのは、目だ。生気に溢れ、気の強そうな明るい茶色の瞳は、磨いた木の実みたいに輝いている。


 アマリアは視線が合った瞬間、不愉快さを隠そうとせずに顔をしかめた。形良い鼻の頭に皺が寄る。

「臭いわ」

 真っ先に助けてもらった礼を言おうと思っていた俺は、機先を制されて言葉に詰まった。


「そりゃあ、監獄暮らしだったからな」

 十日前、死刑の宣告を受けた後、市内を引き回されたが、その時に見物人から投げつけられた汚物だって、洗い流せていない。監獄に浴場なんか、あるわけがない。身体中、垢だらけだ。可能なら、今すぐ公衆浴場テルマエへ行き、垢擦り器ストリジルでこそぎ落としたい。


「ありがとう。本当に感謝している」

 俺は、アマリアに向き直ると、心から礼を言った。


「でも、どうして、俺を助けてくれたんだ?」

 気紛れにしても、死刑を宣告された罪人をかくまうなんて、尋常じゃない。

 俺の問に、アマリアは、さも当然とばかりに、年齢の割に薄い胸を反らせて、つんと顎を上げた。


「前に、あなたが私を助けたからよ。恩を返すのは、人として当然でしょう?」

 アマリアと初めて会った日は、今から約一月前だった。通りでアマリアに殴りかかった男から、庇ったのだ。

 とはいえ、あれが助けたと恩に感じられる行動だったかどうかは、疑問だ。男が殴りかかるとほぼ同時に、アマリアは手に持っていた日傘で、男の鳩尾みぞおちを突いていたのだから。むしろ、余計な手出しだったのかもしれない。


 男とアマリアが揉めていたそもそもの原因は、男が、足の不自由な老人を不注意で突飛ばしたためだった。老人に謝りなさいと言うアマリアと、自分の不注意を認めようとしない男との言い争いが白熱した結果、男が暴力に訴えたのだ。


 ちなみに、俺が割って入った時には、老人はいざこざを恐れて、既に姿をくらましていた。ともあれ、あの程度の行為を恩に感じて、死刑囚を匿うなんて、とんだお嬢さんだ。助けてもらった俺が言える義理ではないが。


「ところで、あんたはこれから、俺をどうするつもりなんだ? あんた、いいところのお嬢さんなんだろ? 俺は、二人の人間を殺したと言われている殺人犯なんだぜ。助けたことがバレたら、まずい事態になるぞ」


 アマリアの身分は、明らかに俺より格段に高い。金の掛かった装いだけが根拠じゃない。ちょっとした所作や、身に纏う雰囲気が、生まれの良さを示している。おそらく、一番上の身分、元老院議員の御令嬢だ。


 ローマでは、下から、奴隷、解放奴隷、自由民、騎士階級、元老院階級と身分が分かれているが、俺は自由民の中でも下位の、ローマ市民権がない属州民だ。もし、俺にローマ市民権があれば、裁判で死刑を宣告された時に、控訴権を行使して、首都にいる皇帝に、裁可を求められた。

 だが、持っていないものは、どうしようもない。


 アマリアの返答によっては、すぐに臥輿から飛び降りて逃げるつもりだ。しっかり幕を閉じているので、今、臥輿が進んでいる正確な位置はわからないが、波の音はとうに聞こえなくなり、活気のある賑わいが幕越しに聞こえてくる。街中へ入っているはずだ。


 俺の言葉に、アマリアは一度、瞬きした。

「嫌だ、うっかりしていたわ。あなたを助けた理由が、もう一つあるの」

 アマリアは、北アフリカの陽光のように眩しく微笑んだ。思わず見惚れてしまうほど、華やかだ。


 笑顔のまま、アマリアが軽く腰を上げる。右手を握り締めたかと思うと、アマリアは体重を乗せた拳で、俺の左頬を殴りとばした。


 完全に不意を突かれた俺は、体勢を崩して仰け反り、臥輿の四隅にある屋根を支える柱の一本に、頭をぶつけた。臥輿が、がたんと大きく揺れる。


 一瞬、目の前が白く染まるほど、強烈な一撃だった。何故、殴られたのかわからず、呆然としている俺を見下ろし、赤くなった右の拳を左手でさすりながら、アマリアはにこやかに告げた。


「あなたに、暴言のお返しをしなくてはと、思っていたの」


 一月前、アマリアと別れる際に告げた言葉が、脳裏に甦る。

「いくら正しい行動でも、正義がいつも勝つわけじゃないんだぜ。女子供が、大の男に真っ正面から向かっていって、勝つわけがないんだ。怪我をしたくなかったら、大人しくして、お供無しで出歩くのは、やめるんだな」

 親切心で忠告してやったのに、とんだお返しだ。


「さっきのあなたの言葉だけれど」

 俺の呻き声を無視して、何事もなかったかのように平然とアマリアが口を開く。


「あなたが殺人犯だというのは、嘘なのでしょう?」


 俺を見つめるアマリアの眼差しは、恐ろしく真っ直ぐだ。明るい茶色の瞳は、偽りを許さない強い光を湛えている。


「なんで、そう思う?」

 俺は答えずに、逆に問い返した。殺人犯として捕まってこのかた、誰一人として、無実だと主張する俺の言葉をまともに取り合ってくれた人間はいなかった。ところが、今、一面識あるだけのアマリアが、俺の無実を信じてくれている。


 俺には、アマリアの確信の理由が、どうにも掴めなかった。

 アマリアは、詰まらなさそうに肩を竦める。

「あなたが、殺人を犯した理由は、僅かな金を得るためだと聞いたわ。私の謝礼を断ったあなたが、僅かな金のために人を殺すなんて、道理に合わないでしょう」


 確かに、一月前、俺はアマリアの謝礼を断った。明日の食う金にも困る貧乏人だが、金持ちの気紛れのお恵みに尻尾を振るほど、堕ちちゃいない。


「じゃあ、あんたは、俺の無実を信じてくれるんだな?」

 無表情を装うとするが、つい、口元が緩む。伸びている髭で、アマリアからはよく見えないのが救いだ。

「死刑になりたいって言うのなら、今すぐ、衛兵を呼んであげるわよ」

 アマリアが悪戯いたずらっぽく笑う。


「冗談じゃない。ライオンの昼飯にならなきゃいけない奴は、ちゃんといるんだ。俺は、本当の犯人を捕まえる」

 決意を込めて宣言すると、アマリアの茶色の瞳が、好奇心にきらりと輝いた。


「面白そうな話ね。じっくり、聞かせてもらうわ」

 アマリアの言葉に応じたかのように、臥輿が止まった。

「でも、その前に、あなたの臭い身体を、なんとかしなくてはね。いてらっしゃい」


 アマリアは、俺の返事も聞かずに、一方的に命じた。奴隷が臥輿から降りる足台を持ってくる前に幕を開け、ストラの裾を翻して軽快に降りる。

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