第1章 獅子は空腹に吼える 3


 俺が奴隷に案内され、通された部屋は、立派な玄関広間アトリウムを囲む部屋の一つだった。

 壁には、色鮮やかなモザイクで、ナイル川の景色が描かれている。室内には、イルカをかたどった足の青銅製のテーブルと椅子があるだけで、他に家具はない。


 臥輿を降りた後、邸内に入ったアマリアは、手近な奴隷に何やら指示を出した後、別の部屋へ去っていた。


 初仕事の泥棒のように、落ち着きなくあちらこちらを見回していると、先ほど案内した奴隷が、水の入った桶や、布、着替え等を持ってきた。俺は、ありがたく身体を拭かせてもらう。着替えのテュニカは、真新しかった。俺は、古着屋で買った中古のテュニカしか、着た経験がない。

 着替え終わった時には、もう一人、奴隷が増えていた。手に小さな桶と剃刀かみそり、クッションを抱えている。

 クッションを置いた椅子に座らせられると、髭剃ひげそりが始まった。錬鉄製の半月形の剃刀と水だけで髭を剃られるのは、拷問に近い痛みだ。


 帝政初期の頃までは、ギリシア人やゲルマン人くらいしか髭を生やしていなかったが、九十年ほど前に帝位に就いたギリシア趣味だったハドリアヌス帝が髭を生やし始めて以来、ローマ人も髭を生やすのが普通になっている。もちろん、俺も髭を伸ばしている。毎日のように、こんな責め苦を味わうなんて、真っ平だからだ。理容師に払う金だって惜しい。九十年前に生まれなくて、本当によかったと思う。


 身支度を整えた俺は、奴隷に案内されて、部屋を出た。

 アトリウムの中央には、莫大な金を投じて、水道から引いた噴水があり、海神・ネプトゥヌスの大理石の彫像の口から、ひっきりなしに水が溢れている。採光と雨水の貯蓄のために開いている天井から降り注ぐ陽光が、宝石のように水飛沫を煌めかせている。


 常に水が流れている噴水の周りは涼しい。燃えるような暑さの北アフリカでは、この上ない贅沢ぜいたくだ。


 奴隷は、アトリウムを囲む別の部屋に俺を案内する。部屋の中では、背もたれの高い女性用の椅子に座ったアマリアが、ガラスの器に入った飲み物を優雅に飲んでいた。

 部屋へ入ってきた俺に、ちらりと視線を寄越すと、アマリアは楽しそうに微笑む。


「あら、ちゃんとした身なりをすれば、なかなか見られるのね。髭がないほうが、若々しくていいわ」

「俺はまだ、二十三だ。若いと言われて、喜ぶような年じゃない」

 髭剃りの痛みを思い出して、俺は憮然ぶぜんと口を曲げる。だが、アマリアは意に介した様子もない。


「こちらへ来て座りなさい。棗椰子なつめやしの実があるわよ」

 犬でも呼ぶような気軽さで、俺を呼びつける。俺は抵抗しようとしたが、あっさり身体が意思を裏切った。ぐうう、と大音量で腹が鳴る。なんせ、牢獄に入れられて以来、生きるのに最小限の食べ物しか、与えられていない。


 アマリアは遠慮なく吹き出して笑い転げると、戸口に控えていた奴隷に、パンやチーズを持ってくるように命じた。俺は、意地を張るのを諦めて、テーブルを挟んでアマリアの正面に置かれた椅子に座った。


 アマリアが、わざわざ水差しの中身をガラスの器に注いでくれる。礼を言って、一口飲むと、蜂蜜入りのミントティーだった。ミントの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。


「さ、話しなさい。あなたは、いったいどんな理由で、無実の罪で死刑になりかけたの?」

 まるで、新しい読み物の巻物を前にしたように、明るい茶色の瞳を好奇心に煌めかせて、アマリアが俺を見つめる。


 アマリアの態度は腹立たしいが、助けられた恩がある。それに、誰かに、真実を伝えておきたかった。


「役人達は、俺が金のためにミュルテイアと、彼女の父親を殺したと言っている。でも、それは嘘だ。俺は、本当の犯人を知っている」

 アマリアの目を真っ直ぐに見つめ、俺は、役人に捕えられた一月前の出来事を、順を追って説明した。


 ◇ ◇ ◇


 殺されたミュルテイアと俺の仲は、単なる知り合いというには近しく、恋人と呼ぶには、お互いに、燃えるような情熱が足りなかった。恋人というよりも、兄妹の真似事まねごとと表現したほうが正しいかもしれない。


 もし、ミュルテイアの恋人を探すなら、レプティス・マグナの街には、ミュルテイアの恋人を自認する男が、何人もいるだろう。


 ミュルテイアは、表向きは父親マルロスが経営する軽食堂ポピーナの給仕だったが、咲き誇る花のような彼女自身を求める男には、住居を兼ねた軽食堂の中二階で、春をひさいでいた。

 ローマ市民権を持ってはいても、何の後ろ楯もない貧しい父娘が、故郷を遠く離れた地で暮らすためには、必要な手段だ。ミュルテイアだけじゃない。軽食堂の女主人や娘、女給が春をひさぐ行為は、ローマ帝国中、どこででも見られる光景だ。


 北アフリカには珍しい、北方出身の白い肌と明るい金髪のミュルテイアは、なかなかの人気者だった。熟れた甘美な果実のような容姿に惚れていた男も、少なくないはずだ。


 そいつらを差し置いて、俺がミュルテイアと親しかった理由は、俺もミュルテイアと同じく、帝国の北、ダヌビウス(ドナウ)川沿いの出身だったからだ。

 事件が起こった日にも、俺はミュルテイアに頼まれて、豆やら油やら、かさばる上に重い物を買いに、市場へ行っていた。

 レプティス・マグナは、ヒスパニアに負けないオリーブ油の名産地だが、マルロスの店では、オリーブ油のような高級品は使わない。使うのは、生臭い魚油だ。


 マルロスの軽食堂に戻ってきた時には、昼もかなり回って、客は数えるばかりに減っていた。ミュルテイアの姿は一階にはなく、代わりに、店の奥の中二階へ通じる階段から、一人の男が降りてきた。


 この辺りでは珍しく、北方出身らしい髪の色と顔立ちをしていた。他の町からやってきたのか、くたびれた軍靴カリガエを履き、腰には護身用だろうグラディウスを下げている。背には大きな荷物を追っていた。

 惚けたような晴れ晴れとした表情を見れば、男が中二階で何をしてきたかは明らかだ。


 買ってきた豆などを下ろしていると、階段からミュルテイアが顔を出して、俺を呼んだ。淡い金色の髪が乱れている。


「ね、トラトス。ちょっと来なさいよ」

 ミュルテイアが笑いながら俺を呼ぶ時は、大抵、マルロスに隠れて昼飯をくれる時だ。俺は中二階へと上がった。


 中二階は、父娘の住居だが、一部屋しかなく、かなり狭い。寝台が二つと、幾つかの手箱を置けば、それだけでいっぱいだ。壁に打った釘には、テュニカが掛けられている。


 部屋の空気は蒸し暑く、淀んでいた。先ほどまでの行為の気配が濃厚に漂っている。だが、ミュルテイアは気にした様子もない。

 俺に大麦のパンを一つ放って寄越すと、自分の寝台に腰掛けて、乱れた髪を解き、結い直し始める。俺は立ったまま、壁に凭れてパンをかじった。大麦のパンは、小麦のパンの半分の値段で買える。貧乏人の俺には、お似合いだ。


「豆と油、幾らだった? どうせ、父さんったら、まだお金を払ってないんでしょ?」

 手早く髪を纏めたミュルテイアが、俺を見上げた。さすが娘だ。マルロスの吝嗇けちな性格を、よくわかっている。マルロスは、俺をいいように使い走りにするくせに、立て替えた金を、なかなか払わない。


 それでも、俺が毎日のように軽食堂へ顔を出す理由は、ミュルテイアが俺を見ると、嬉しそうに笑うからだ。もし、実の妹がいたとしたら、こんな感じなのかもしれない。


 俺が、立て替えた豆と油の値段を告げると、ミュルテイアは寝台の下から、革袋を引っ張り出した。上半身を屈めた拍子に、わざと深く開けたテュニカの襟刳えりぐりから、豊かな胸が覗く。男共を惹きつけるための、あざとい手段だ。

 ミュルテイアは、大人の拳ほどに膨らんだ革袋から、デナリウス銀貨を四枚、取り出すと、俺に寄越した。


 おかしい。俺は眉を寄せた。

 軽食堂の売り上げ金は、マルロスの寝台の奥に押し込んだ手箱の中に入っていて、手箱の鍵は、マルロスが常に首から下げている。ミュルテイアが、こんなにも銀貨を自由にできるはずがない。俺は、革袋の出所にぴんときた。


「ミュルテイア。また、客の荷物をちょろまかしたな。さっきの男か」

 厳しい顔を作って睨むと、ミュルテイアは、悪戯いたずらが母親に見つかった子供みたいな顔をした。つんと唇を突き出す。


「ぼんやりしてる奴が悪いのよ。まあ、あたしも、こんなに銀貨が入ってるとは、思わなかったけど」

 ミュルテイアは、肩をすくめて笑うと、革袋の口をしっかりと閉める。革袋の中には、まだ何十枚もの銀貨が入っていそうだ。


 ミュルテイアは、手癖が悪い。行きずりの客と見れば、隙を突いて、何かを盗む。大抵は、小銭だったり、腰や首から下げた御守りだったり、細々した物なのだが、今回は、えらく大きな盗みをしたものだ。

 中には本当に物を忘れていく奴もいるが、銀貨が詰まった革袋を忘れる馬鹿はいない。


「盗まれたと気づいて怒鳴り込んできたら、どうするんだ? 危ない真似は、しないほうがいいぞ」

 俺は顔をしかめて、年上らしく注意した。


「じゃ、さっき払ったお金、返してちょうだい」

 ミュルテイアが、さっと手を俺に伸ばす。

「それとこれは、別の話だ」

 俺が唇をひん曲げて答えると、ミュルテイアは吹き出した。二人で顔を見合せて笑う。


「せっかくの稼ぎだ。マルロスに奪われるなよ」

 ひとしきり笑った後、俺はミュルテイアに忠告した。

「トラトスこそ。ちょっと懐が温かいからって、無駄遣いしちゃ駄目よ」

 すぐさまミュルテイアが言い返す。まるで、口うるさいおふくろみたいだ。

「じゃ、またな」

 俺は手を軽く上げて言うと、ミュルテイアを残して、一階へ降りた。


 一階の客は、全員が出ていっていた。汚れたカウンターやテーブルを、マルロスがぼろ布で拭いている。俺が軽食堂を出ようとすると、いぶかしげに顔を上げた。だが、何も言わずに、再び掃除に戻った。俺が使い走りの代金を請求しないのを不審に思いはしたものの、自分から尋ねる必要はないと考えたのだろう。吝嗇けちのマルロスらしい。


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