銀は血に濡れて ~古代ローマ謎解き冒険譚~

綾束 乙@8/16呪龍コミック2巻発売!

第1章 獅子は空腹に吼える 1


 力任せに頬を殴られ、俺は闘技場アレーナに続く薄暗い壁まで、派手に吹っ飛んだ。

 立っていられず、ずるずると座り込む。剥き出しの肩や背中が石壁で擦れる。今、俺が身につけている物は、粗い織の羊毛製の腰巻と、両手を後ろで縛り上げている荒縄だけだ。


「俺は殺していない」


 衛兵を見上げ、目を見つめて告げると、間髪を入れず、思いきり鳩尾を蹴られた。ここしばらくの監獄暮らしで、すっかり骨の浮いた肋が軋む。


「これからライオンに食われるって時まで、しらばっくれるのか! トラトス、お前なんざ、ライオンに八つ裂きにされて、ミュルテイアの何倍も苦しんで死ね!」


 ミュルテイア。衛兵が告げた名が、刃のように、ぐっさり俺の胸を貫く。咲き誇った花のようだったミュルテイア。この衛兵も、ミュルテイアの客だったのか。


「おいおい、殺さないでくれよ。公開処刑が中止になったら、暴動が起こっちまう」

 光が差し込む通路の先から、防護服を着、長い棒を持った執行役の奴隷が、衛兵を止める。俺を更に蹴りつけようとしていた衛兵は、不承不承、足を下ろした。


「ゆっくりと腹を裂かれて、肉の一片も残さず食われちまえ!」

 地面にへたり込んだままの俺の腕を掴み、衛兵が乱暴に俺を立たせる。

 俺は、地面に倒れた拍子に指先に当たった固い欠片を、密かに右手に握り込んだ。感触からして、おそらく剣闘士が被る兜の飾りの欠片だ。

 誰も見向きもしないガラクタだが、俺にとっては、今は何よりも価値がある。手の中の欠片を転がして、指先で持つと、衛兵に気づかれないように、荒縄に擦りつけ始めた。


 無実の罪で、ライオンに食われるなんて、絶対に御免だ。何がなんでも逃げてやる。


 執行役の奴隷と並んだ衛兵が、突き飛ばすように、俺を薄暗い通路から、真昼の陽光が降り注ぐ闘技場に押し出した。眩しさに視界が白く染まる。

 手で顔を覆いたい。だが、後ろ手に縛られた身では、それすら叶わない。

 視線を下に落とせば、北アフリカの強い日射しが作る足下の影は、このまま地下の冥府へ引きずり込まれそうなほど、濃く、黒い。アレーナ一面に撒かれた白い砂は、太陽に熱せられて、裸足の足の裏が火傷しそうなほど、熱い。


 アレーナをぐるりと囲む観客席からは、興奮した観客達の喚声や罵声、怒鳴り声などが聞こえる。まるで、ちっぱけな罪人を押し潰すかのような音の洪水だ。


 レプティス・マグナの円形闘技場は、海岸に近い丘の斜面を楕円形にくり抜いて作られている。砂の匂いに交じって、潮の香りがする。


 アレーナの中央に一本だけ立てられた大人の背丈ほどの杭に、手首を縛る縄の余りを巻いて、俺を固定すると、衛兵は通路へ退場した。詰め物をふんだんに入れた分厚い防護服と兜を身につけた執行役の奴隷は、長い棒を持って、俺の隣に控えたままだ。奴には、ライオンを俺にけしかけるという重大な役目がある。


 俺の両手を戒める荒縄は、まだ切れない。痛みを感じるほど強い北アフリカの陽光に照らされた肌から、暑さの汗とは異なる汗が、俺の背中を伝い落ちる。


 耳の奥でわんわんと響く観客席の歓声に混じって、俺の真正面の通路の鉄格子が開けられる軋みが聞こえた。

 鉄格子の向こうで、黄金に輝く瞳の持ち主が、王者のように悠然と姿を現す。

 罪人を処刑するために、特別に調教されたライオンだ。


 俺は、今まで何度も、ライオンが罪人を処刑する姿を観客席で見てきた。ライオンは、親切な死刑執行人だ。大多数の罪人は、ライオンの前足の一撃か、頭への一齧りで、冥府へと旅立てる。俺は、どちらも御免だが。いつも飢えさせられているライオンには気の毒だが、奴の昼食になってやるつもりは微塵もない。


 茶色の毛皮に、くしゃくしゃの黒いたてがみのライオンは、重たげに尻尾を振りながら何歩か前へ出ると、黄金色の瞳で、じっと俺を見つめた。本日の昼食をどこから齧るか、考えているのかもしれない。黄金の瞳は、ぞっとするほど無慈悲な輝きを宿している。


 俺の横に立つ奴隷が、長い棒を構えた。ライオンを突いて、罪人にけしかけるのだ。

 俺は両腕に力を込めた。荒縄が手首に擦れて皮膚が剥けるが、構っていられない。両腕に渾身の力を込めて、擦り切れかけていた荒縄を引き千切る。


 だが、縛めを解いた時には、奴隷に棒で突かれ、不機嫌に唸ったライオンが、俺を目指して歩き出していた。一歩を踏み出すごとに、毛皮の下の強靭な筋肉が波打つ。


 俺が自由の身になったと気づいた観客が、興奮して大声を上げる。観客の喚声の変化に気づいた奴隷が、俺を振り返った。と、同時に、俺は奴隷の足を払っていた。

 砂地に転んだ奴隷には目もくれず、アレーナを囲っている網を目がけて走る。


 ライオンは、一瞬、奴隷と俺のどちらに飛び掛かるか、迷ったらしい。一度、立ち止まった。だが、素っ裸に近い俺のほうが、簡単に食事にありつけると考えたようだ。俺を目がけて走り出す。

 巨体だというのに、獲物を前にしたライオンは、ほとんど足音を立てずに走る。が、迫り来る威圧感は如何ともし難い。まるで、死が凶暴な肉体を得て、実体化したようだ。客席の観客が、口々に何か叫んでいる。だが、音の塊にしか聞こえない。


 助走をつけて、網へ飛びつく。

 次の瞬間、ライオンの強靭な前足が、さっきまで俺がいた空間を薙いだ。必死で網をよじ登る。後ろ足で立ったライオンが、足に噛みつこうと、牙を剥く。生温かい息が、足の裏を撫でた。血生臭い肉ばかりを餌に与えられるライオンの息は臭い。


 予想外の展開に、観客が沸く。中には、罵声と共に、食べていた棗椰子の実やオリーブの実を、俺を目がけて投げてくる客もいる。

 牙も前足も届かなくなったライオンは、それでも後ろ足で立ち、不満そうな唸り声を上げている。


 ライオンから逃げられたからといって、まだ安心はできない。風を切って飛んできた矢が、身体のすぐ側を通り過ぎる。警備の弓兵が放った矢だ。

 俺は無我夢中で手足を動かすと、網を登りきり、観客席から一パッスス(約一・五メートル)の高さで網を固定している竿を乗り越え、観客席へ降りようとした。

 罪人を逃すまいと、弓兵が二本目の矢を放つ。


 矢が肩口を掠める。皮膚が裂け、刷毛で書いたように赤い血が滲み出す。

 傷に構わず網から手を放し、観客席へ飛び降りる。


 目の前に降ってきた罪人に、最前列に座っていた小太りの男は、驚きのあまり、手にしていた瓶を床に落とした。葡萄酒が流れ出て、水溜まりを作る。

「悪いが、貰うぜ」

 俺は、落ちた瓶を素早く拾うと、振りかぶって投げた。取り押さえようと向かってきていた衛兵の顔面に命中し、衛兵が鼻血を吹いて倒れる。


 吐き出し口ウォミトーリアと呼ばれる入退場用の通路の入口は、すぐ側だった。

 観客が興奮して手を叩き、足を踏み鳴らす。俺を捕まえようと、手を伸ばす者もいる。

 観客席のあちこちに配置された衛兵が、俺を目がけて殺到する。衛兵に押し退けられた観客が、後ろから衛兵を殴り倒す。客同士で掴み合いの喧嘩を始める者もいた。罵声と怒鳴り声が飛び交い、食べかすや素焼きの瓶が宙を舞う。


 強い風が吹き、神々の像に被せられていた布の一枚が、外れてはためく。

 闘技場のあちこちに置かれた大理石製の神々の像は、罪人が処刑される時には不浄の場を見せないように、布を被せて目隠しされる。目隠しが外れた女神ケレスの神像は、眼下で繰り広げられる人間達の醜態を、冷やかに見下ろしている。


 女神の視線を振り払うように、俺は通路の暗闇の中へ飛び込んだ。

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