第7章 官邸に隠された秘密 2


 財務官の執務室で、俺達を迎えた人物は、まだ若い奴隷が一人きりだった。


 室内には、奴隷の前の簡素な木の机の他に、脚に彫刻を施した大きな机が二つあった。だが、主はいない。

 財務官のスウェニウスと副官のウィリウスの机だろうが、財務官は狩猟休暇中だし、ウィリウスは表向きは事故死扱いになっている。奴隷は、机の上に何枚か書字板を置いているものの、鉄筆を放り出し、暇そうに鼻をほじっていた。


 奴隷は、突然、現れた俺とアマリアを見ると、慌てて鼻の穴から小指をひっこ抜いた。

「な、何の御用ですか? 財務官は休暇中で……」

 もごもごと言い訳を口にしながら、顔を上げた奴隷は、俺の顔を見て、目を剥いた。いい加減、慣れたとはいえ、されて嬉しい反応ではない。


「ウィ、ウィリウス様……では、ありません、よね?」

 俺が唇をひん曲げていると、奴隷は恐々と、下から俺の顔を伺った。

 俺が返事をするより先に、アマリアがさっと俺と奴隷の間に割り込んだ。


「あなたに聞きたいことがあるの。財務官の副官であったウィリウスお兄様は、最近、どんな仕事に携わっていたのかしら?」

 アマリアの質問を聞いた途端、奴隷の顔に緊張が走る。


「申し訳ありませんが、職務の内容について部外者に洩らすことは、総督によって、固く禁じられております」


 言い切ると、奴隷は生娘の腰帯のように、唇を固く引き結んだ。ニメリウスから余程きつく口止めされているのか、それとも、ニメリウスの叱責が恐ろしいのか。何にせよ、口を開かせるのは手強そうだ。


 だが、何故、総督がウィリウスの職務について口止めするのか。ウィリウスがどんな仕事に携わっていたか調べられては、何か困る理由でもあるのだろうか。


 俺は、労りの表情を浮かべて、穏やかに奴隷に話しかけた。

「命令を全うしようとする、あんたの姿勢は、立派なもんだ。だが、考えてもみてくれ。アマリアお嬢様は、突然、敬愛する兄が死んだと聞かされて、わざわざローマから、タラコまで旅してきたんだぞ。ウィリウス様をしのぶよすがに、タラコでのウィリウス様の活躍ぶりを話してくれたって、罰は当たらないだろう?」


「う……。そ、それは……」

 奴隷は顔に逡巡を浮かべて、アマリアを見やる。俺の意を汲んだアマリアは、ここぞとばかりに憐れっぽい表情で、奴隷を見つめた。

「お願い。お兄様の話を聞ける相手は、あなただけなの」

 アマリアの眼差しを正面から受け止めた奴隷の顔が、ブリタニアの林檎みたいに、赤く染まる。


「お兄様の働きぶりは、どうだったのかしら? ローマへ帰って、私の報告を待つ父に、誇らしく話せるかしら?」

 アマリアが優しい口調で奴隷に問う。奴隷は赤い顔のまま、口を開いた。


「ええ、勿論ですよ。ウィリウス様は、素晴らしい方でした。スウェニウス様と違って、真摯に仕事に取り組まれていて……」

 奴隷は、うっかり口を滑らせたと、慌てて言葉を止めた。

 が、俺もアマリアも素知らぬ顔をして、奴隷の失言を聞き流す。アマリアが言っていた通り、スウェニウスの狩猟休暇は、役立たずを追い出すためだったらしい。


「財務官の副官って、どんなお仕事をするのかしら? 私、行政には、詳しくなくて」

 アマリアが、世間知らずなお嬢様を装って、おっとりと小首を傾げる。


 財務官は、首都ローマに勤務する場合もあるが、大抵は、軍団付きと、官邸付きの二種類に分かれる。


 軍団付きの財務官は、ローマ帝国の各地に駐屯する軍団基地に赴任し、軍団兵の給料の支払いや、テュニカや食器など軍団で使う消耗品や、兵糧などの購入を担当し、もし戦闘が起こって戦利品があった場合は、戦利品の売却も行う。


 対して、官邸付きの財務官の仕事の最たるものは、税の徴収だ。売上税や穀物税、関税など、税には様々な種類があるが、その中でも、人頭税は、ローマ市民には課されず、ローマ市民権を持たない属州民だけに課される税である。当然ながら、属州での税収の中での割合は、かなり高い。


 実際の税の徴収は、財務官が行わず、入札で徴税権を落札した徴税請負人プブリカニと呼ばれる民間人が徴収する。徴税請負人は、しばしば、私腹を肥やす意図で総督と結託し、実際よりも高い税率を掛けて税金を取り立てる。法で定められた以上の税金を、属州民からむしり取った場合、それはそのまま、徴税請負人の懐に入るからだ。


 徴税請負人は、あくどい方法で得た金で、高利貸しを営み、更に私腹を肥やしていく。全く、手に負えない連中だ。


 属州総督の悪政を防ぐ手段として、一応、属州民には、属州総督を訴える権利が与えられている。ところが、権利を行使できるのは、退任した総督に対してだけだ。現職の総督は、任期が終わるまで、訴えられない。

 しかも、訴えた属州総督を審査する機関は、首都の元老院である。属州総督は、必ず、元老院議員の中から選ばれる。つまり、審査される者もする者も、同じ元老院議員というわけだ。

 よほどの悪政でない限り、訴えたとしても、結果は目に見えている。


「ウィリウス様は、徴税事務を担当なさっていました。他にも、金鉱や銀鉱の産出量の管理や、官邸の会計なども」

 奴隷の言葉によると、つまり、本来、スウェニウスがするべき職務のほとんど全てを、ウィリウスがこなしていたわけだ。


「お兄様が特にお世話になっていた方は、いるかしら? 出入りの商人や、徴税請負人とか。お礼を言いたいのだけれど」

 アマリアが奴隷に尋ねる。

「うーん。特には、すぐ出てきませんね。ウィリウス様は、どなたともうまく付き合ってらっしゃいましたが、特定の商人と親しくなさることは一切なく……」

 首を傾げて答えた奴隷は、部屋に俺達の他に誰もいないに拘らず、辺りをはばかるように声を潜めた。


「役人の中には、商人達から賄賂を受け取るのを、当然と思っている人も多いですが、ウィリウス様は、その点、潔癖でしたからね」

 官品の受託を得られれば、商人には大きな利益になる。属州総督になれば、一財産を築けると巷で囁かれる理由は、商人達から様々な賄賂を受けるからだ。


 アマリアが商人について奴隷に尋ねた理由は、ウィリウスに恨みを抱いていた商人がいるかどうかを、確認したかったからだろう。ウィリウスに賄賂を渡そうとした商人の中には、賄賂を断られて、不満に思った奴がいた可能性もある。


「お兄様が、休暇を取る前に、よく会っていた方は、いるかしら?」

 徐々に口がほぐれてきた奴隷に、アマリアが尋ねる。奴隷は遠くを見るように、視線を巡らせた。

「そうですね……。いつも来客が多かったので、特には出てきませんが」

 なかなか、有益な手掛かりが出てこない。俺はアマリアに代わって口を挟んだ。


「ウィリウス様は、身分の割に、気さくで風変わりなところがあった方だが……。仕事において何か、変わった点はなかったか?」

 俺の問に、奴隷は即座にかぶりを振った。

「いえ、ウィリウス様は、執務に対して、それは真面目な方でしたよ」

 が、「そういえば」と呟く。

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