第14章 妹は復讐の女神 5


「甘くていい香り。ねえ、このお菓子は、おいしいの?」


 俺の気も知らず、男の隣に並んだアマリアは、物怖ものおじせず親しげに男に話しかける。良家のお嬢様が、庶民の食べ物に興味をそそられた、という態だ。


 突然、声を掛けられた男は、一瞬、警戒の表情を浮かべた。しかし、話しかけた人物が身なりの良い美少女だと知ると、途端に相好そうごうを崩す。


「なんだ。お嬢ちゃんは、食ったことがないのか。一つやるから、食ってみな」


 男は店主から受け取った包みをアマリアに差し出す。パピルスの反古紙ほごしを折って袋状にし、その中に菓子を入れている。おかげで、受け渡しをする時に手が汚れなくていいが、蜂蜜でにじんだインクが、菓子につく。


「あら、おいしい」

 遠慮する素振りも見せず、白い繊手せんしゅで菓子をつまんだアマリアは、一口かじって、嬉しそうに顔をほころばせた。菓子の残りも食べ、指先についた蜂蜜を、唇から、ちろりと出した舌で舐めとる。


「お嬢ちゃん。この辺りの人間じゃないようだが、ルグドゥヌムには、旅行で来たのかい?」


 アマリアが菓子を食べている間、アマリアの金の掛かった身なりを、絹のリボンで結い上げた頭の天辺から、毛皮とガラスのビーズをあしらった履き物の爪先まで、舐めるように観察していた男が、愛想よくアマリアに尋ねる。


「そうよ。お父様が近くの土地を買うらしくって、私もいてきたの。ガリアは海沿いのマッシリア以外は、来た経験がないから、楽しみにしていたのだけれど」


 アマリアは、一旦、言葉を切ると、いかにも贅沢ぜいたくに慣れた我がままなお嬢様らしく、不満そうに唇を尖らせた。


「お父様ったら、馬車で移動するばかりで、全然、私を自由にしてくれないのよ。町に着いても、宿から出る時は、必ず口うるさい奴隷をお供につけるし。だから、私、一人で宿を抜け出してきたの」


 アマリアは重大な秘密を打ち明けるように、重々しく告げると、明るい茶色の瞳を悪戯っぽく輝かせて、男を見上げた。


「ねえ、あなた。どこか、面白い場所を知らない? 劇場だなんて、つまらない答は駄目よ。喜劇や悲劇なんて、ローマでもう飽きるほど観ているんだもの」


 ねだるようなアマリアの声音は、菓子に掛かった蜂蜜のように甘い。鉄でできた男の理性すら、熔かしてしまいそうだ。案の定、男は小鼻を膨らませて興奮した。慌てて咳払いをし、パピルスのように薄っぺらい威厳を取り繕う。


「お嬢ちゃんは、ローマから来たのか。道理で、この辺じゃ見かけない、垢抜あかぬけた別嬪べっぴんさんだと思ったよ。俺も、数年前まではローマにいたんだ。俺に任せな。ローマでも味わった覚えがないような、刺激的な経験をさせてやるよ」


「本当? 期待しているわ」

 アマリアは鷹揚おうように微笑む。


 どうせ、男の頭の中にある考えなど、決まり切っている。人気のない裏路地にでも引きずり込んで、アマリアの高価な装身具や衣装を奪い、ついでにアマリア自身も味わおうという低俗な了見だろう。

 アマリアも男の考えなど、とうにお見通しだろうが、屈託くったくなく、男に答えている姿は、無防備この上ない。俺は、今すぐアマリアと男の間に割って入りたい気持ちを抑えながら、苛々いらいらと二人のやりとりを見守っていた。


「さあ、こんな所で立ち話をしていたって、始まらない。こちらへどうぞ、お嬢ちゃん」

 男は馴れ馴れしくアマリアの肩に手を回すと、歩くように促した。


 菓子の屋台の前から離れ、通りを行く人々の間をすり抜けて、細い路地へと入っていく。

 アマリアの美貌に気づいた何人かが、興味津々という態でアマリアに視線を止めるが、連れの男がくグラディウスに気づくと、声も掛けずに、ただ見送るだけだ。


 俺は、品物を物色する振りをするために手に持っていた青銅器を店主に放り返すと、急いでアマリアと男の後を追った。

 品物を乱暴に扱われた店主が文句を言うが、ほとんど耳に入らない。俺が通行人をき分けている間に、男とアマリアは大きな通りに交わる細い裏路地に姿を消していた。男が自ら、他人目のない裏路地へ入ってくれたのはありがたい。とはいえ、一緒にいるアマリアが心配だ。


 俺は、二人が入っていった路地の前に立った。細い路地で、人が二人すれ違えるかどうかの幅しかない。両側には、四階建てのインスラが建っていて、陽光もろくに射さない薄暗い路地だ。くねくねと曲がっていて、見通しも悪い。暗がりの陰に乞食や浮浪者が潜んでいても、不思議ではなさそうだ。


 アマリアと男の姿は、既に見えない。俺は躊躇ためらわずに裏路地へ飛び込んだ。

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