第9章 北の僻地の秋 2


 軍団によって計画的に築かれたイスカ・シルルムの町は、自然発生的な町とは異なり、主要な街路が直角に交わっていて、比較的、道がわかりやすい。

 ローマ式で造られた町は、町の中心を石畳で舗装されたローマ街道が貫いている。街道がそのまま、町の大通りになるのだ。

 広場フォルム公会堂バシリカがある町の中心を目指せば、自然と軍団基地へ近づいていく。


 視線を上げれば、今にも雨が降りそうに、どんよりと雲が立ち込めている。そんな陰気な空の下、近づく者を威圧するように、周りの建物よりも一際ぐんと高い軍団基地の壁が見える。


 アマリアは軍団基地の近くまで来ると、大通りを外れ、飲食店が並ぶ路地へ入っていった。アマリアの足取りに迷いは欠片もない。だが、確か、アマリアはブリタニアへ来た経験はないはずだ。


 帝国の辺境へ来る元老院議員令嬢など、普通はいない。夫の任地の属州へ従いていく場合が多い元老院議員夫人だって、不便で陰気なブリタニアには来たがらないに違いない。夫だけを任地に送り出し、自分は快適なローマで自由を満喫するに決まっている。おそらく、アマリアはブリタニアでただ一人の、未婚の元老院議員令嬢だろう。


 案の定、しばらく歩いたアマリアは、不意に立ち止まると、俺を振り返った。つんと顎を上げ、高慢に命令する。


「あなたが目指す居酒屋は、どこなの? この辺りは、居酒屋ばかりじゃないの。案内しなさい」

 俺は呆れて、吐息した。

「おいおい。行き先もわからずに歩いていたのかよ」


「あら、軍団基地の近くの居酒屋だとはわかっているわよ。だから、軍団基地に向かって歩いていたんじゃないの」

 アマリアは悪びれた様子も全くない。


「あなたもわからないのなら、その辺りの居酒屋に入ってみましょうか?」

「やめろ。俺が判別する」

 見世物小屋に飛び込もうとする子供のように、目を輝かせて言うアマリアを、俺は慌てて引き止めた。


 アマリアの言う通り、道の両側には、幾つもの店が立ち並んでいる。居酒屋や軽食堂だけではない。夕暮れ前の今は、火は灯されていないが、目印の火口ほくちが二つあるランプを下げた娼館、小間物や素焼きの土器を売る店など、様々だ。


 俺は素早く辺りを見回した。ちょうど、一人の男が、一軒の居酒屋へ入ろうとする姿が目に止まる。男の腰帯からは、鞘に入ったグラディウスが下がっている。


 刃の長さが短めで、近接戦闘に適したグラディウスは、ローマ軍団の軍団兵全員に支給されている。重装歩兵である軍団兵は、ローマ軍団の主力である。


 俺も、用心のために、腰にグラディウスを佩いている。補助兵だった親父の形見だ。軍団の主力である軍団兵と異なり、属州民で構成される補助兵の装備は多様だ。重装歩兵もいるが、騎兵や、軽装歩兵、投石兵や弓兵などもいる。俺の親父は、騎兵だった。

 「軍では、実力さえあれば、出世できる」が親父の口癖で、非番の日には、幼い俺によく手ほどきをしてくれたものだ。


「俺が補助兵を勤め上げれば、ローマ市民権がもらえる。トラトス、お前も、立派なローマ市民になれるんだ。軍で出世して、母さんに楽をさせてやれ」


 目を閉じれば、幼い日の父の姿が、ありありと浮かぶ気がする。残念ながら、父自身が戦死したため、親父の壮大な夢は、夢のまま、ついえてしまったが。

 親父の思い出など、最近は、とんと回想する機会もなかったが、今は、思い出に浸っている場合ではない。


 俺は、居酒屋へ入る男の姿を子細に観察した。男の年齢は三十代半ばだろうか。十八歳から入団でき、二十年が兵役期間となる軍団兵の中では、古参兵にあたる。

 男は、グラディウスと共に支給される短剣プギオを、ベルトの左前につけていた。

 一般兵が、短剣を右前にベルトに差すのに対し、百人隊長は、身分の証として、左前につける。短剣の鞘の装飾もなかなか凝っているし、この男は、百人隊長で間違いない。


 一般の軍団兵からの叩き上げである百人隊長は、軍団の支柱ともいうべき存在だ。新兵や年若い軍団兵にとっては、教師でもあり、父親代わりでもあるし、いざ、戦闘となれば、百人隊長は隊を率いて、最前線で戦う。乱戦の中でも、味方の軍団兵が見失わないよう、百人隊長の兜には、目立つ飾りがつけられている。


「あの店に入るぞ。あんたは、目立たないように、外套のフードを被っておけ」

 俺は、アマリアに素っ気なく告げると、百人隊長に続いて居酒屋へ入った。


 アマリアは俺の指示通り、フードを目深に被り、美貌を隠して俺の後に続く。  フードに隠れる寸前、ちらりと見えた表情は、戦車競走を見に行く子供のように、わくわくしていた。

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