第5章 最期を知る者 1
ウィリウスが生前暮らしていた部屋からアトリウムへ出た俺は、奴隷の姿を探して、アトリウムを見回した。
雨水貯めを挟んだ向かい側の部屋では、若い女奴隷が寝台に敷布や掛布を掛けたりしている姿が見えた。突然、やってきたアマリアのために、部屋を整えているのだろう。
アトリウムを囲む一室に調理場があるらしい。アトリウムの奥にあたる俺の右手の方向から、人が働いている気配と、薪を燃やす匂い、食欲を刺激する香辛料の香りが漂ってくる。アマリアのための夕食を用意しているに違いない。忙しく働いている場へ話を聞きに行っても、満足な聞き込みができるとは思えない。だが、俺は魅惑的な香りに負けて、セイレーンの歌声に誘惑された船乗りのように、調理場へ向かった。
入口から中を覗くと、調理場では二人の奴隷が忙しく立ち働いていた。煙を外へ逃がすために、どこの屋敷でも、調理場には天井がない。煉瓦造りの調理台の上には金属の三脚が置かれ、三脚の下で薪が勢いよく燃えている。三脚の上に載せられた青銅製の鍋からは、俺を調理場まで引き寄せた香辛料の香りが、湯気と一緒に立ち上っていた。
奴隷が働く場である調理場は、驚くほど狭い。煤で汚れた壁には、さまざまな大きさの鍋や漉し器が掛けられ、その下で働く奴隷達は、うっすらと汗を掻いている。
奴隷の一人は、すりこぎで乳鉢の中身を磨り潰しており、もう一人は、包丁で
「葡萄酒を一瓶分、貰ってもいいか? お嬢様が喉が渇いたらしくてな」
俺はあらかじめ考えていた口実を口にする。ガリア人らしい背の高い奴隷は、無言のまま、むっつりとした表情で、床に穿った穴に入れて、倒れないよう固定しているアンフォラの蓋を取ると、中の葡萄酒をガラスの水差しへ注いだ。
「ありがとう。手を止めさせて悪かったな。お嬢様へは、俺が持っていくよ」
俺は手を伸ばしてガラスの水差しを受け取ると、壁際の棚から素早く素焼きのカップを二つ取り、そそくさと調理場を後にした。
勿論、行き先はアマリアの元じゃない。俺はアトリウムを抜けて玄関へ通じる通路へ入った。玄関脇には、門番が詰めている小部屋がある。夕暮れが近いこの時間なら、門番は暇を持て余しているだろう。
「よお、ちょっといいか?」
俺が小部屋を覗くと、門番は、椅子に座って暇そうに欠伸を噛み殺していた。
門番の年齢は、俺と変わらなさそうだ。二十代の前半だろう。背は高いが、ひょろりと痩せていて、不埒者を叩き出すには力不足に思える。主人が滅多に来ない属州の別邸なら、非力な門番でも十分に役目を果たせるのだろう。力はなさそうだが、黒い瞳に浮かぶ光は利発そうに見える。俺が門番を聞き込みの相手に選んだ理由でもある。
声を掛けられた門番は、戸口の俺を振り返って、一瞬、顔を強張らせた。が、すぐに表情を緩めると、息を吐く。
「なんだ、アマリアお嬢様のお供か。何か用か?」
「ああ。ちょっと、あんたに話を聞きたくてな」
俺は後ろ手に隠し持っていた水差しとカップを掲げ、親しげに笑い掛けた。
「差し入れ付きだ」
「お、あんた。なかなか話がわかるな」
門番は嬉しそうに口元をほころばせると、俺を小部屋へ招き入れた。
「生憎、椅子は一つきりしかないんだが」
小部屋の中にある家具は、木製の粗末な机と椅子が一脚だけだ。壁には、いざという場合のために棍棒が掛かっている。
「部屋の主から、椅子を奪う気はないさ。俺は立って飲むよ」
俺はカップに葡萄酒を注ぐと、まず門番に渡した。次いで自分の分を注ぐと、水差しは机に置いて、壁にもたれた。カップを受け取った門番は、葡萄酒に口をつけずに、俺の顔をまじまじと見ている。
「俺は、そんなにウィリウス様に似てるのか?」
葡萄酒を一口だけ
ピレネー山脈の南の海岸沿いに広がる土地の特産品は、葡萄酒だ。口に含んだ葡萄酒は、しっかりした味わいと芳醇な香りが絶妙な調和を奏でていた。つい杯を呷りそうになって、理性で堪える。聞き込みをするために来たのだ。酔い潰れるわけにはいかない。
俺の言葉に、門番は俺の頭の天辺から爪先まで眺めると、頷いた。
「ああ、かなり似ている。さっき見た時は、ウィリウス様が帰っていらしたのかと、驚いた。だが、髪と目の色が違うな。あんたのほうが、ウィリウス様より髪の色が明るいし、ウィリウス様の目は、濃い茶色だった。それに」
門番は、おどけるように片眉を上げると、言葉を続けた。
「生まれ育ちの差だろうな。あんたじゃ、逆立ちしたって、ウィリウス様の品の良さに敵わない」
門番は品定めでもするように、俺を見た。
「まさか、あんた、ウィリウス様の腹違いの兄弟ってわけじゃ、ないんだろ?」
「ああ、赤の他人だ」
俺はきっぱりと頷いた。俺はしがない補助兵の息子だ。元老院議員階級なんて、アマリアに会うまで、口を聞いた経験もない。
それに、もし、アマリアみたいなお転婆な妹がいたら、今頃は心配のあまり、胃痛でのたうち回っている。
「俺の名前はトラトスだ。あんたは?」
「ラウロ」
短く答えたラウロは、カップの葡萄酒を喉に流し込むと、目を見開いた。
「こいつは上等な葡萄酒だな。あんた、いったいどうやったんだ?」
「なんてことはないさ。お嬢様が葡萄酒をご所望だ、って言ったんだ」
肩を竦めて答えると、ラウロはおかしそうに喉を鳴らした。
「なかなかやるな。で、こんな上等な葡萄酒を手土産にして、何の話が聞きたいんだ?」
「ウィリウス様についてだ。俺は最近、雇われたばかりでな。ウィリウス様の人となりも全く知らないんだ。ウィリウス様が亡くなられた時の話も聞きたい」
「ウィリウス様か」
呟いたラウロは、遠い目をした。
「ウィリウス様がタラコへ来られたのは、数ヶ月前だ。お仕えした期間は短かったが、あんな方は、初めてだったな」
ラウロは両手でカップを包み込むように持ち、言葉を続ける。
「生まれも育ちも元老院議員階級なのに、偉そうなところがない方だった。庶民の生活が面白いと見えて、よく、細々した品を買ってらしたよ」
ウィリウスの収集物は、俺もさっき見たばかりだ。
「俺みたいな奴隷にも気安く話し掛ける方で、前に一度、クロタルはどこで手に入れられるんだって聞かれたこともあったな」
ラウロはウィリウスとのやりとりを思い出したのか、口元を緩めた。俺は、ウィリウスとは一面識もないが、ラウロの話を聞いていると、人となりが想像できた。アマリアも相手の身分に関係なく、俺などにも気安く話し掛けるが、兄の影響に違いない。
「一応、確認しておきたいんだが。この屋敷に、ウィリウス様を恨んでいた奴隷はいなかったか?」
俺の予想通り、ラウロはかぶりを振った。
「そんな奴はいないね。この屋敷の奴隷はみんな、ウィリウス様が本当の主人になってくれたらと、内心で強く願っているはずさ」
この屋敷は、アマリアの父親の友人の持ち物だ。ウィリウスもアマリアも、本来の主人ではない。ラウロが話すウィリウス像を聞く限り、ウィリウスに恨みを持つ奴はいないように思えた。俺は、質問を変える。
「ウィリウス様が亡くなられた時の状況を、教えてくれないか?」
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