第9章 北の僻地の秋 4


 アマリアの言葉の意味を理解した瞬間、戦車の玩具を前にした少年のように瞳を輝かせていた百人隊長の表情が、わずかに曇る。嫌な予感を覚えて、俺は百人隊長の顔を注視した。


 百人隊長は、アマリアから視線を外すように俯いて、口を開く。


「財務官のキリヌス様は……十日ほど前に亡くなられました」


 百人隊長が告げた言葉に、俺とアマリアは同時に息を呑んだ。鋭い呼気が、テーブルの空気を凍りつかせる。急に外の寒さ忍び込んできた気がして、俺はぶるりと身体を震わせた。


「キリヌス様は、何故、亡くなられたの?」

 アマリアが上品の仮面を引き剥がし、噛みつくように百人隊長に尋ねる。


 危険が迫るキリヌスを助けるために、ヒスパニアのタラコからブリタニアまで旅してきたというのに、間に合わなかったとは。俺は悔しさに歯噛みした。

 俺とアマリアの推測では、ウィリウスとクレメテスが、キリヌスの危機を救うべく、ブリタニアへ来ているはずだが、推測が外れていたのだろうか。それとも、予想外の事態が起こったのか。


「キリヌス様が亡くなられた状況を教えて頂戴ちょうだい。キリヌス様の身に、何が起こったの?」


 アマリアが厳しい声で百人隊長に尋ねる。百人隊長は、情けなさそうな顔で項垂れた。


「詳しい状況は、わたしは何も……」

 アマリアが、役立たずと言わんばかりに形良い眉をしかめる。だが、口に出しては、何も言わない。


 百人隊長程度なら、キリヌスの詳しい死因までわからずとも、仕方がないだろう。他に何か百人隊長から情報を引き出せないかと、俺とアマリアが口をつぐんだ瞬間、食器の割れる大きな音と、女のけたたましい悲鳴が響いた。


 素早く音のした方向を振り返ると、床やテーブルの上に散乱した食器や食べ物と、軍団兵達と揉み合っている行商人と給仕女が見えた。給仕女と行商人の服は、料理や酒でひどく汚れている。どうやら、酔っ払った軍団兵が、給仕女にぶつかるか、突くかして、行商人のテーブルの上の食器をひっくり返したのだろう。


 いくら食事をひっくり返されたとはいえ、よく何人もの軍団兵に突っかかっていくものだと感心して行商人を見ると、耳まで赤く染まっている。行商人も、かなり酔っているらしい。


 四人の軍団兵と行商人は、大声でやり合っている。給仕女が間に入ってなだめようとしているが、双方とも、収まる気配はない。一人の軍団兵が、煩わしそうに給仕女を突き飛ばした。よろけた給仕女が、行商人のテーブルにぶつかり、テーブルの上に僅かに残っていた食器が、全て床に落ちる。成り行きを見守っていたカウンターの店主が、このままではまずいと考えたのだろう。店主が重い腰を上げた。


 その刹那、行商人が一際、大声で軍団兵に罵声を浴びせた。土地の言葉だろう、俺には意味がわからなかったが、酷い侮蔑の言葉だとは、瞬時に理解できた。


 赤ら顔を更に紅潮させた軍団兵達が、腰のグラディウスに手を掛ける。顔を引きつらせた給仕女が、行商人を庇うように、行商人と軍団兵の間に体を割り込ませた。


 流血沙汰を回避しようと、俺が咄嗟に立ち上がって空のコップを軍団兵の右手目がけて投げたのと、アマリアの鋭い声が響いたのが、同時だった。


「やめなさい!」


 一瞬の静寂と同時に、軍団兵の右手に、俺が投げた青銅製のコップが命中した。床に転げ落ちて、鈍い音を立てる。


 痛みのあまり、剣の柄を手放した軍団兵が、憎々しげに俺を睨みつけた。しかし、睨まれた程度で、たじろぐ俺じゃない。

 俺は、行商人の代わりに軍団兵を相手にする気で、軍団兵の視線を真っ正面から受けとめた。と、すかさずアマリアの叱責が俺に飛ぶ。


「挑発なんて、おやめなさい!」

 次いで、被っていたフードを脱ぎながら、アマリアが軍団兵達に向き直る。


 あらわになった美貌に、店にいる者全員が、息を呑む。ゆっくりと首を巡らせ、辺りを睥睨へいげいしたアマリアは、引き結んでいた口を開いた。


「軍団兵が酔っ払った挙句、民間人を手に掛けたとなれば、栄光ある第二アウグスタ軍団の名に傷がつくのではなくて?」


 アマリアに睨まれ、軍団兵達は気圧けおされたように視線を落とす。アマリアは次に、行商人に向き直った。


「食事をひっくり返されたあなたが怒る気持ちは、わかるわ。けれど、ここで軍団兵とめ事を起こしては、先々の商売に悪い影響が出るでしょう?」


 この町で、最も力を持つ存在は、当然ながら、第二アウグスタ軍団だ。たとえ、軍団の御用商人として品物を納入していなくとも、軍団に目をつけられては、うまくいく商売も、うまくいかないだろう。


 アマリアの言葉に、冷静さを取り戻した行商人は、無礼な罵声を浴びせた謝罪の言葉をぼそぼそと呟くと、逃げるように居酒屋を出ていった。可哀想に、酔いもすっかり醒めたに違いない。


 相手がいなくなっては、軍団兵達も揉み合いを続けるわけにはいかない。まだ不満そうな顔をしつつも、椅子に座り、側に来ていた店主に大声で、追加の葡萄酒を注文する。

 鬱陶しい気分を晴らすために、飲み直す気らしい。店主は、給仕女と一緒に、足早にカウンターへ戻っていった。


「思いがけず、目立ってしまったわね」

 騒ぎを収めたアマリアが、悪戯っぽい表情で俺を振り返る。俺は苛立つ気持ちを隠さずに、鼻を鳴らした。


「場合が場合だったんだ。仕方がないだろ」

「随分と不機嫌な顔をしているのね。葡萄酒に悪酔いでもしたの?」

 俺が不機嫌な理由が、悪酔いではないとわかっているだろうに、アマリアが俺を振り返って、からかうような笑みを浮かべた。


「こんな不味い葡萄酒じゃ、酔いたくても酔えないさ」

 俺は顔を顰めると、努めて素っ気なく答えた。


 軍団兵達をなだめる給仕女の姿を目にした時、俺の脳裏に浮かんだ人物は、今は亡きミュルテイアだった。ミュルテイアも、よく酔っ払い達の仲裁をしていた。痩せぎすでとうの立った給仕女と華やかだったミュルテイアでは、容姿に全く共通点などないが、給仕女を突き飛ばした軍団兵に、俺が思わず怒りを覚えたのは、確かだ。


 だが、俺が感じた感傷をアマリアに教えてやる気は、微塵もない。感傷的な男だと、アマリアに思われるのはしゃくだ。アマリアの視線を逸らせるように、俺は後ろを振り向いた。が、そこにいた百人隊長の姿が消えている。


 首を巡らすと、百人隊長は、別のテーブルで飲んでいた仲間の輪に入っていた。

 仲間の百人隊長達は、アマリアをちらちら見ながら、百人隊長を肘で小突いている。どういう訳でアマリアみたいな美少女と同席していたのか、問いただしているのだろう。中には、明らかに下卑た感情を宿す視線も混ざっている。


 何人もの百人隊長に、下手に絡んでこられても困る。

 「出るぞ」と、俺は短くアマリアを促した。まだ壺の中に葡萄酒は残っているが、飲む気には、全くなれない。どうせ、後で店主が、こっそりとアンフォラに戻すに違いない。


 アマリアも、この居酒屋でこれ以上の情報収集するのは得策ではないと考えたのだろう。フードを被り直し、きびすを返す。俺は、百人隊長達の無遠慮な視線からアマリアを守るように、先を歩くアマリアの後ろにつき従って、居酒屋を出た。

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