第10章 宿までは遠すぎる 1


 外へ出ると、予想以上に日が暮れていた。空は既に、宵の群青色が夕暮れの赤を駆逐しつつある。


 夕食の小麦粥プルスを作っているのか、幾つかの家から、細い煙がたなびいている。立ち並ぶ居酒屋の店内でもランプが点けられ、柔らかな光と食べ物の香りが、道行く人を誘うように、路地へ洩れていた。


 夕暮れ間近のこんな時間に、家路にもつかずに盛り場をうろついている人間の目的は、普通に考えれば、酒か女に決まっている。


 だが、今日は、例外が紛れ込んでいるようだ。


「宿へ帰るのは、もう少し後になりそうかしら?」

 俺と連れ立って大通りへと路地を歩いていたアマリアが、隣の俺を見上げて、悪戯っぽく微笑む。


「俺は、騒ぎは御免だ」

 苦々しい気持ちを隠さず、すぐさま俺は答えた。


 アマリアを生半可な宿に泊めるわけにはいかないため、町を貫く大通りに面した宿に、既に部屋は取ってある。辺境のブリタニアで、首都ローマと同じ快適さは求むべくもないが、のみに食われずに夜を過ごせる程度には、上等な宿だ。


 俺は顔をしかめて、さりげなく背後をうかがった。


 尾行に気づいたのは、居酒屋を出てすぐだ。先ほどいた居酒屋で、俺達とは別のテーブルに着いていた百人隊長が二人、緊張した面持ちで、俺達の少し後を従いてくる。


 アマリアの美貌に惑わされて、不埒ふらちな行為に及ぶつもりか、それとも、俺達がキリヌスについて調べていると知って、口止めする気か。目ばかりをぎらぎらと輝かせる百人隊長二人の顔を見る限り、判断はつかない。


 もっとも、百人隊長達の目的がどちらであっても、俺が取るべき行動は一つだけだ。何があろうとも、アマリアを守りきる。それだけだ。


 間もなく起こるだろう波乱を先読みしたように、空には暗雲が低く立ち込めている。


 と、突然、耳をつんざくような轟音が響き渡った。真白い雷光が黒雲を切り裂き、水袋が破れたかのように、激しい雨が地面を叩く。天空を司るユピテルは、ブリタニアを遊び場と心得ているらしい。ブリタニアでは、いつも、何の前触れもなしに突然、雨が降る。


 道行く人々が、雨を避けようと手近な居酒屋へ飛び込んだり、家路を急いだりと、路地が騒然となる。


 二人の百人隊長が動いたのは、その瞬間だった。俺とアマリア目がけ、一直線に走ってくる。もちろん、のんびりと待っている俺達じゃない。


「走るぞ!」

 俺はアマリアの手を握ると、大通りへ走り出す。アマリアの手は、尊大な態度とは裏腹に、小さく、柔らかい。香油で手入れされた肌は、絹のように滑らかだ。


「返り討ちにできたら、いいのだけれど」

 俺に遅れず走りながら、アマリアがとんでもない要望を口にする。


「無茶を言うな! そいつは、ログルスの依頼の範囲外だ」

 ローマを出立する前、アマリアの父ログルスは、娘の護衛を依頼したが、まさか、依頼の中に百人隊長との追いかけっこまで入っているとは、全く予想すらしていなかった。無事にローマまで帰れたら、追加料金を請求しなくては。


「トラトス!」

 アマリアが、小さく叫んで、俺の注意を促す。


 俺達の進行方向に、もう一人、別の百人隊長が立ちふさがっていた。裏道を通って先回りしていたのだろう。獲物を待ち構える百人隊長は、既にグラディウスを抜き放っていた。

 激しく降る雨がグラディウスの刃を伝い、刃先から垂れている。


 どうやら、俺達は、キリヌスの無事を確認しようとして、獅子の尻尾を踏んでしまったらしい。俺達の血で、グラディウスを紅に染めるなんて、真っ平御免だ。


 俺は百人隊長を視認すると同時に、方向転換していた。しかし、店が立ち並ぶ通りには、飛び込めるような路地は見当たらない。


 俺は迷わず、手近な汚らしい小屋へ飛び込んだ。入口に火口ほくちが二つあるランプを吊した娼館だ。

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