第4章 兄の足跡を追って 2


 俺とアマリアがタラコへ着いた日は、皇帝港を出航してから、六日目だった。


 ヒスパニアの空の青さは抜けるように美しく、白い波が立つ海は、動く絵画のようだ。しかし、俺とアマリアには、風景の美しさを愛でる気持ちなど、芥子粒ほどもなかった。


「荷卸しなんて、その辺の奴隷に頼みなさい。真っ直ぐ総督官邸に向かうわよ」

 アマリアは俺に命じるが早いが、町へ向けて歩いていく。


 ヒスパニアには、南からバエティカ、ルシタニア、タラコネンシスと三つの属州があるが、タラコは、三つの属州の中で最大の広さを誇るタラコネンシス属州の州都であり、ヒスパニアで最も繁栄している都市である。

 ヒスパニアとガリアの境界であるピレネー山脈ピレナイ・モンテスから百ミリアリウム(約百五十キロメートル)ほど南にある海岸付近の町だ。


 カルタゴがローマに滅ぼされる以前は、カルタゴの支配下にあったヒスパニア南部の町々は、フェニキア人が建設した町がほとんどだが、ヒスパニア北東部に位置するタラコは、ローマ人がローマ暦五三五年(紀元前二一八年)に、イベリア半島攻略の拠点として建設した町である。


 アマリアが官邸を目指す理由は簡単だ。ウィリウスの事故死の知らせは、総督ニメリウスの名で書かれていたためだ。ニメリウスはログルスの友人でもある。

 元老院議員の身分は、剥奪されない限り終身だが、元老院議員の息子となると、無条件で元老院議員になれるわけではない。元老院議員階級に必要な百万セステルティウスの資産を有しているのは最低条件だが、更に、選挙によって選出される公職に当選する必要がある。


 一般的に「名誉のキャリアクルスス・ホノルム」と呼ばれる公職は、上から順に、皇帝に次ぐ内政の責任者である執政官コンスル、司法を担当する法務官プラエトル、財政を管理する財務官クァエストル、公共建築や祭儀を管理する造営官アエディリスがあり、財務官に選出された者は、自動的に元老院に議席を得られる。元老院議員階級に資産が必要な理由は、これらの公職が、無給だからだ。

 執政官を務めた者は、前執政官プロコンスルの称号を得、属州総督となる資格を有する。


 ローマ帝国には三十数個もの属州があるが、属州は二つの種類に分けられている。皇帝属州と、元老院属州である。


 元老院属州とは、地勢やローマの支配下に組み入れられた経緯などから、軍団の駐屯の必要がないと判断された、比較的安全な属州だ。

 ギリシアや、カルタゴがあったアフリカの地中海沿岸など、もともと文明化されていた地域が多い。元老院属州には、元老院で選ばれた任期が一年限りの総督が派遣される。


 対して、皇帝属州は、ひとたび住人の反乱や蛮族の侵入が起きれば、たちまち前線に早変わりする属州だ。勿論、ローマ軍が駐屯している。蛮族の居住地と接する、レヌス(ライン)河、ダヌビウス河沿いの属州、島の南部しか征服していないブリタニア属州、パルティアと接するシリア属州などが、皇帝属州にあたる。

 皇帝属州の総督は、皇帝自らが任命する。大事件が起これば、軍を率いて対処しなければならないため、また、そうした事態を起こさないためにも、優秀な人物が選ばれる。任期が何年にも及ぶ事態も珍しくない。


 二十三歳のウィリウスが、父親の友人である総督ニメリウスを頼って、タラコネンシス属州に滞在していた理由は、近い将来、財務官に立候補して当選した時のための予行演習だ。財務官の勤務地は首都とは限らない。帝国各地に駐屯する軍団基地の経理を行う財務官もいれば、属州の財政管理を行う者もいる。


 総督が住まう官邸は、大通りに面していた。官邸は街路に面した前半分が総督府として使われ、奥まった部分が総督の私用に供されているようだ。

 官邸の中は、生成りのテュニカを着、巻物を抱えた奴隷や、陳情に来たものの、どこに行けばよいかわからず戸惑い顔の市民、総督府の奴隷を捕まえてかすれた声で文句を並べ立てている萎びた婆さん、暢気に立ち話をしている房飾りつきのテュニカの裕福そうな商人の話し声などが、大理石の柱廊に反響していた。

 商人達は今年の葡萄の出来栄えについて、声高に話している。大方、葡萄酒の輸出業者なのだろう。


 入ってきたアマリアに気づいた商人が、話し相手の脇腹を肘で突いた。突かれた相手はアマリアを見て、口を丸く窄めて感嘆の息を吐き出す。特に着飾っているわけではないが、アマリアの美貌は人目を引く。


 正午を二、三時間ほど過ぎていたが、ニメリウスは、総督府のほうにいた。

 アマリアが官邸の公共奴隷を捕まえて、ニメスリウスと面会したい旨を伝える。イベリア人らしい巻き毛の若い奴隷は、有無を言わさぬ様子のアマリアと、アマリアの背後に控える俺を驚いた顔で見比べてから、あたふたと総督の執務室へと走っていった。


 待つほどもなく、俺達は執務室に通された。

 執務室は広い部屋だった。床が白と黒のモザイクで、壁は上半分が青く塗られていた。よく晴れた今日の青空と同じ色だが、俺とアマリアの心情は、青空よりも、今にも雷が落ちてきそうな曇天のほうが近い。壁の下半分は羽目板張りで、帆立貝とイルカが彫られていた。


 ニメリウスは、部屋の奥に置かれた獅子足の大理石のテーブルの向こうに座っていた。テーブルの上には、巻物や書字板が置かれている。決裁待ちの書類だろうか。


 ニメリウスは小太りの身体に赤い房飾りがついたテュニカを着ていたが、元老院議員の印である、裾に赤い線が入ったトーガは着ていなかった。トーガは見た目が重厚で立派だが、左手が自由にならないし、動きにくい。加えて、重い。首都ローマと異なり、楽な格好で仕事ができるのは、属州暮らしの特典だ。

 ニメスリウスの年齢は、五十代半ばほどだろう。よく日に焼けているため、若く見えなくもないが、頭に白髪が混じり始めている。鼻は大きく立派だが、目は細い。細い目の奥で冷徹に光る眼差しは、抜け目なさそうな印象を受ける。


 ヒスパニアは、蛮族の侵入がほとんどなく、タラコネンシス属州に一個軍団しか駐屯していないとはいえ、仮にも皇帝属州の総督なのだ。ニメリウスはそれなりに有能な人物なのだろう。


 執務室へ入ってきた俺とアマリアを、ニメスリウスは立ち上がって迎えた。

「君がアマリア・カルティアか。前に会った時は、まだほんの小さな子供だったが。美しいお嬢さんに成長したものだ」

 感嘆のあまり、何度も頷いたニメリウスは、アマリアの後ろに控える俺を見て、細い目を見開いた。


「この者は、単なる従者ですわ。どうぞ、お気になさらず」

 アマリアが素っ気なくニメリウスへ告げる。先ほどのニメリウスの言葉に、感じ入った様子すらない。ニメリウスが曖昧に頷き、アマリアに執務机の前の椅子を勧めた。アマリアが椅子に腰掛け、俺は椅子の斜め後ろへ立つ。


「外は暑かっただろう。何か飲み物でも……」

「ありがとうございます、閣下。ですが、わたくしは、兄の身に起こった事故について伺うために、タラコに参ったのです。飲み物など、落ち着いて飲んでいられませんわ」

 ニメリウスの言葉を遮って、アマリアが口を開く。茶色の瞳には、すがるような光が浮かんでいる。もしかしたら、ウィリウスの死は間違いではないかと、まだ心の奥底で願う気持ちを止められないでいるのだろう。


 アマリアの真っ直ぐな視線を受け止めかねるように、ニメリウスは目を逸らした。

「まさか、ローマからタラコまで来られるとは、全く思っていなかったものでな。ひとまず、知らせを送った後、こちらで火葬したウィリウスの遺骨は、入れ違いでローマへ送ったのだが……」

 アマリアが唇を噛む。


「では、やはり、お兄様は……」

 絞り出したアマリアの声は震えていた。だが、ニメリウスを非難する響きはない。

 ローマでは、結婚式よりも葬式のほうが重要視される。元老院議員階級ならば、盛大な葬儀を催すのが普通だが、属州に一人で赴任していたウィリウスには不可能な話だ。加えて、今は九月だ。遺体を放ってはおけない。ニメリウスの処置は妥当だろう。父の元へ送られたウィリウスの遺骨は、ログルスに新たな涙を流させた後、大理石の立派な骨壺に収められ、代々のカルティウス家の先祖が眠る墓所へ入れられるのだろう。


「いったい、兄の身に何が起こったのですか?」

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