第33話 奇跡の条件


 過去の自分と現在の自分との間で心が揺れるヘレナ。

 春日を救いたい気持ちとヘレナを傷つけたくない気持ちとの間で葛藤を抱く冬夜。


 ヘレナと冬夜は出会ったことでお互い歓喜を覚えた。

 しかし、互いを深く理解することで激しい苦悩を抱える。

 それは、いかに「希代の天才」と称される者であっても容易には解決できないものであり、二人は心の動揺を抑えることができなかった。


 から三ヶ月が過ぎた。


 もともとクールなヘレナとポーカーフェイスの冬夜は、はたから見れば、変わらぬ付き合いをしているように見えた。

 しかし、二人は気付いていた――を境に、互いの関係がぎこちないものへと変わっていることに。


 冬夜は、ヘレナとの電話やメールを何よりも優先した。

 ヘレナは、冬夜から送信されたメールにはすぐに返事をした。

 戦略会議の日、二人はいつもいっしょにランチをとった。


 二人の様子を見て「ぎこちない」と思う人はまずいない。

 むしろ、そんな風に思う方がおかしいぐらい。

 ただ、二人は互いの言葉や態度に「悲しみ」を感じていた。


★★


 ヘレナは思った。


 冬夜は小さい頃からすべてを投げ捨てて、病気に苦しむ妹を救うためだけに生きてきた。、すべてを包み隠さず打ち明けたのは「力を貸して欲しい」という意思表示――これまで孤軍奮闘してきた彼が恥も外聞もかなぐり捨てて発したメッセージに他ならない。

 しかし、そんな冬夜の気持ちを知りながら、ヘレナは何の力も貸さなかった。

 結果として、冬夜は、張り詰めていた、緊張の糸が緩んでしまったのではないか? それほどまでにヘレナに期待するものが大きかったのではないか? 

 もちろん、ヘレナが役に立てないのであれば仕方がない。とんだお門違いをした冬夜に問題がありヘレナには何の責任もない。

 ただし、役に立てるにもかかわらず、あえてそれをしなかったとなれば話は別。冬夜がずっと探し求めてきた唯一無二の存在であるにもかかわらず、ヘレナは名乗ることをしなかった。彼が深い悲しみに沈む原因を作ったのは誰でもなくヘレナ自身。

 目の前で大切な人が苦しんでいるにもかかわらず、平然と見捨てるような真似をする者はどんな風に見られるのだろう? 「血も涙もない」。「人として欠陥がある」。「人を愛する資格などない」。そんな言葉が当てはまるのではないか?

 ヘレナは紛れもなく、そんなたぐいの人間。冬夜のことを好きだなんて聞いてあきれる。


「私は冬夜の近くにいてはいけない存在。でも――」


★★★


 冬夜は思った。


 ヘレナがウィノナであることを確信したのは、二人が書いたサインを見比べたとき。しかし、ヘレナにすべてを打ち明けたとき、心のどこかにおぼろげながらがなかったと言えば嘘になる。

 つまり、あのときの冬夜は、ヘレナが過去の自分を隠している理由を深く考えることなく、自分の目的を果たすためだけに行動した。彼女が決して思い出したくない過去を暴こうとした。

 そんな傷口に塩を塗りつけるような行為により、ヘレナは大きなショックを受けたに違いない。彼女が深い悲しみを抱いているのはまさに冬夜のせい。

 春日を助けるためなら、すべてを犠牲にしても惜しくないと思った。他人から後ろ指を指されたり口汚くののしられても構わないと思った。

 ただ、ヘレナだけは違う。これ以上、踏み込むことが躊躇ためらわれた。そうすることで、さらに傷つけるのが目に見えているから。

 春日を救うには「過去の彼女」の力が必要不可欠。しかし、辛い過去を蒸し返すのは、過去の自分と戦いながら必死に生きてきた彼女を傷つけ、その生き方を否定することになる。


「絶対にヘレナさんの過去を蒸し返してはいけない。でも――」


★★★★


 七月二十五日。PT戦略会議ストラテジーミーティングの日。ヘレナと冬夜はいつものようにカフェテリアでランチを取った。

 エスプレッソを飲み終えたヘレナは時計をチラリと見て席を立とうとする。


「ヘレナさん、午後の会議が終わった後、隣りの応接室に来てもらえませんか? 話したいことがあります」


 不意に冬夜が声を掛ける。


「わかった。ちょうど私も話がしたかった」


 ヘレナは表情を変えることなく淡々と答えると、トレイを手にその場を後にする。

 冬夜はどこか緊張した面持ちでヘレナの後ろ姿を目で追った。


 午後五時を少し回った頃、戦略会議が終わる。

 出席者は会議室を出て廊下をエレベーターホールへと向かう。

 誰もいないのを確認すると、ヘレナと冬夜は隣りの応接室――五人掛けの応接セットが置かれたこじんまりとした部屋へ入っていく。窓からロサンゼルスのビル群が見える。


 二人はテーブルを挟んでソファに腰を下ろした。

 ヘレナは横目で窓の外をチラリと見る。この時期の日没は午後八時前後。夕方ではあるが、空には日中と同じ、夏の太陽が輝いている。


「ヘレナさん」


 冬夜が口を開くと、ヘレナは無言で視線を冬夜の方へ向けた。


「時間は取らせません。少しだけボクの話を聞いてください。ヘレナさんも話があると言っていましたが、ボクが先でいいですか?」


「キミが先でいい。私のは大した話じゃない」


 ヘレナはいつものように淡々と答える。

 冬夜は目を伏せて視線を足元へ向けた。どこか寂しそうな雰囲気が漂っている。

 

 しばらく沈黙が続く。

 ヘレナは少しれたような様子で、冬夜に声を掛けようとする。

 そのときだった。冬夜が顔をあげて、真っ直ぐにヘレナの目を見つめた。


「אנא האמן לי(ボクを信じてください)」


 冬夜の口から飛び出したのはヘブライ語だった。

 予想だにしない出来事に、ヘレナは目を丸くして驚きと戸惑いがいっしょになったような表情を浮かべる――が、冬夜がヘブライ語を話した理由を、ヘレナは瞬時に理解した。


「あなたの過去を使ってたくさんの人を幸せにしてみせます――」


「そんなことできるわけがない! 私の過去は呪われている! この手で何百人もの人間を殺してきた! それは絶対に私の中から出しては駄目だ! 死ぬまで私が抱え込むべきものだ!」


 冬夜のヘブライ語を別のヘブライ語が遮る。応接室に興奮した声が響き渡った。ヘレナは目に涙を溜めて身体を震わせる。


「あなたの過去が呪われていると言うなら、ボクがその呪いを解きます。あなたの過去を使って、亡くなった人の何千倍、何万倍もの人を救ってみせます。あなたの過去が、人を幸せにするためになくてはならないものであることを証明してみせます。お願いします。ボクを信じてください」


 冬夜はスクッと立ち上がると、ヘレナに向かって深々と頭を下げた。

 その瞬間、部屋の中が水を打ったような静寂に包まれる。

 聞こえるのは、ヘレナの息遣いと心臓の鼓動だけ。窓の外から聞こえていた喧騒も鳴りを潜めている。


 目の前には、頭を下げたまま微動だにしない冬夜がいる。

 まるで時間が止まったようだった。


 冬夜の言葉はヘレナの胸に響いた。

 しかし、彼女は迷っていた。


 窓から射し込む、まばゆい光に、ヘレナは思わず右手をかざす。

 その瞬間、ヘレナの脳裏にが蘇った。頬を一粒の涙が伝う。


『ダメ。私は呪われている。私が天才だなんて言われたからお父さんとお母さんは死んだ。私が二人を殺したんだ』


 そんな思いが言葉になりそうになったとき、は聞こえた。


『ウィノナ、そんなこと言っちゃいけない。誰もそんな風に思っていないよ』


『……お父……さん?』


『そうよ。ウィノナ。あなたは優しい子。幸せにならなければいけない子なの』


『お母さん……? お母さんなの!?』


 どこからか両親の声が聞こえた。

 ヘレナは慌てて周りを見回す。しかし、どこにも二人の姿はない。


『お前はお父さんとお母さんの教えをしっかり守ってくれた。嫌な思いをたくさんさせて済まなかった。でも、こうして生きていてくれた。ありがとう。ウィノナ』


 ヘレナは歯を食いしばりながら首を激しく左右に振った。真珠のような涙があたりに飛び散る。


『あなたはこれまで本当にがんばってきた。たくさんの人の命を救ってきた。だから、今度はあなたが救われる番……お父さんとお母さんの最後のお願いを聞いて』


 母親の言葉はヘレナの胸に染み渡った。「父と母の言うことを聞くべき」。彼女の心がそう言っていた。

 ヘレナは唇を震わせながら、ゆっくりと首を縦に振る。


『ウィノナ、その人を信じなさい。そうすれば、あなたはきっと救われる』


 ヘレナは、頭を下げたまま微動だにしない冬夜に目をやった。そして、ポロポロと涙を流しながら努めて笑顔を見せた。


『……うん。わかった』


『幸せになるんだ。ウィノナ』

『愛してるわ。ウィノナ』


 その瞬間、部屋の中に喧騒が戻ってくる。


『お父さん! お母さん!』


 何度も心の中で叫んだ。しかし、両親の声が聞えることは二度となかった。


 顔を上げた冬夜は思わず言葉を失う。

 ヘレナの顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたから。


「姫野……冬夜……」


 ヘレナは小さな子供のように両手で涙をぬぐいながら鼻をすすりあげる。泣き笑いのような表情が冬夜の顔をジッと見つめている。


「私は……ウィノナ・エレンブルグは、キミを信じる」



 つづく(第4部へ)

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