第53話 忘却の功罪
★
部屋に入るや否や、温人はスーツを着たままベッドに倒れ込んだ。
ベッドの脇で聞こえた「ぱさっ」という音は、手に持っていた、コンビニの袋がフローリングの床に落ちる音。
真っ暗な部屋の中、枕元の目覚まし時計のあたりに「4:10」という、緑色の数字がぼんやりと浮かび上がる。六月に入って帰宅時間はさらに遅くなった。
「何か……食べないと」
うつ伏せになったまま、温人は右手をコンビニの袋の方へ伸ばす。しかし、身体が言うことを聞かない。
視線を壁に向けると、赤い木刀が目に入った。それは、羽田空港で春日から託されたもの。
『次に会うときまでお前が持っててくれ。悪い奴がいたらそいつで懲らしめてやれ』
春日の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、温人の疲れた顔に笑みが浮かぶ。
「春日さん……僕、がんばるよ……あと少しで会えるんだから」
温人はそのまま眠りに着いた。
★★
翌朝、目覚まし時計のベルで目を覚ました温人は、頭が割れるような激痛に襲われる。目を開けていることもままならず、手探りで枕元の目覚まし時計のベルを止める。頭をぐるぐる振り回されるような感覚に襲われ、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。
口を押さえてベッドから降りようとしたが、身体が動かない。
一時間ほど横になっていると症状が治まり動けるようになった。
心身のダメージが許容量を超えたことで、無意識のうちに身体が出社を拒否していたのかもしれない。
その日、温人は市民病院の神経内科を訪れる。
最初に小さな部屋でカウンセリングを受けたが、会社で酷いパワハラを受けていることは明かさなかった。ここでの話が産業医を通して会社へ伝わることを由としなかったから。
過去に白井の部下が退職した際、パワハラが噂されたが、担当部署は「本人の健康管理の問題」と結論付けた。
今回も、いくら温人がパワハラを主張したところで、白井が担当部署に手を回して揉み消されるのは容易に想像が付く。
仮に第三者機関に訴えて社内に調査が入ったとしても、温人を擁護するスタッフは誰もいない。また、温人の残業のほとんどはサービス残業であって、勤怠管理上は適正な労働が行われていることになっている。
「退職」という選択肢も浮かんだが、温人は即座にそれを否定した。出身高校のことが脳裏に浮かんだから。
今年、母校から一人の後輩が入社した。それは、温人の勤務態度が評価されたことにほかならない。「もし自分が退職したら母校に迷惑がかかるのではないか? 後輩が二度と採用されないのではないか?」。そんな懸念がふつふつと湧き上がった。
どんなときも他人への気配りを忘れない、温人の優しさが裏目に出た。
ただ、そのときから温人の精神状態はおかしくなっていたのかもしれない。
温人の診断結果は「
抑うつ薬と睡眠薬が処方され、しばらく様子を見ることとなった。
もし真実を話していたら、診断結果も治療法も変わっていたかもしれない。
温人の病状は、おそらく「適応障害」――社会生活を営む中、特定の事象から生じるストレスが原因で過度の精神的ダメージを受け環境に適応できなくなり、その結果、心身に異常が生じたもの。特定の事象が何であるかは、火を見るよりも明らかだった。
一週間が経ったが、温人の症状は治まらなかった。
目が覚めると、決まって激しい頭痛と吐き気に襲われた。薬を飲めば症状が緩和され、何とか会社へ行くことができた。
不思議なことに会社へ着いて仕事が始まると、嘘のように症状は出なくなる。忙しさが精神と身体を
さらに一週間が経っても変化がないため、温人は再び病院を訪れる。
すると、担当医から二つの提案があった。一つは、抗うつ薬に加えて強めの抗不安薬を処方すること。もう一つは、しばらく休職して安静な状態に置くこと。
前者はともかく後者には強い抵抗があった。そんなことをすれば、白井の思う壺だと思った。
会社の規則では、休職してから半年間は正規の給与が支払われるが、それ以降は少しずつ目減りし二年が経過すると額がゼロになる。もしその時点で回復の見込みが無ければ解雇条件に該当する。「一度休職することでそのままズルズル行ってしまうのではないか?」。そんな危惧が温人の中にはあった。
休職について担当医に断りを入れると、温人は新たに処方された二種類の薬を持って病院を後にする。
★★★
新しい薬は思いのほか効果があった。
二日後、温人を悩ませていた頭痛や吐き気が嘘のように治まる。
医者の説明では、最近認可された新薬で、無意識のうちに気に留めている「嫌なこと」や「不快なこと」を強制的に忘れさせる働きがあるらしい。深い睡眠をとることでより効果が強まることから、睡眠導入剤を併せて服用した。
気に留めていたことを忘れたせいか、心がとても軽くなり、夜も短時間ながらぐっすり眠れるようになった。
苦痛から解放された温人は安堵の胸を撫で下ろす。
しかし、一週間が経った頃、「違和感」を覚える。
壁に立て掛けられた、赤い木刀を見て、温人は首を傾げた。
『どうして僕の部屋に木刀なんかあるんだろう?』
いくら考えても思い出せず、そのときは疑問に対する回答が出ないまま終わる。
さらに二日が経ち、温人は再び「違和感」を覚える。
机の上の写真には、学ランを着た自分とセーラ服を
しばらく考えていた温人だったが、赤い木刀が目に入った瞬間、その顔に
温人には親しい女性の友達は春日しかいない。二人でいっしょに写真を撮るとしたら春日しかあり得ない。そう考えると、写真の女子は春日に間違いない――が、全く思い出せなかった。「赤い木刀も春日のものなのかもしれない」と思いながら、忘れている。
『僕の中から春日さんの記憶が少しずつ消えている』
そんな結論に達した瞬間、温人はその場にへたり込んで、荒い息をつきながら身体をガタガタと震わせた。
それが病気の症状なのか、薬の副作用なのかはわからない。ただ、嫌なことといっしょに、大切なものが消えてしまったのは紛れもない事実。
春日の記憶は温人が前に進むための心の拠り所であって、絶対に忘れてはいけないもの。これまでも、自分の中に春日がいてくれたことで辛いことも乗り越えることができた。
今は、春日がPT媒体になっていることもバランサー・システムで助け出せることも憶えている。さらに、自分が春日のことを憶えていることがその条件であることも認識している。
誰かからそんな説明を受けた記憶はあるが、それが誰だったのか思い出せない。
温人は自分が何をすべきかを考えた。誰に相談したら良いかを考えた。しかし、考えれば考えるほど、大事なものが少しずつ消えていくような気がした。
『確か一月六日に春日さんの家にみんなで集まった。でも……みんなって、誰だ?』
冬夜のことはもちろん、秋穂や柿崎のことも思い出せなかった。
温人の顔から表情が消える。瞳から涙が溢れ出した。
「春日さん……忘れたくない……」
そのとき温人の思考はほとんど停止していた。「春日のことを忘れたくない」。そんな気持ちだけが彼を突き動かしていた。
温人の目に睡眠導入剤の束が映る。
「……眠ってしまえばいいんだ……ずっと眠っていれば、記憶は失われることはない……春日さん、大丈夫だよ。僕が君を助けるから……」
温人は処方された睡眠導入剤を全て口の中へ放り込むと、ガリガリと噛み砕いてゴクリと飲み込んだ。
その顔には薄らと笑みが浮かんでいた。
つづく
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