第54話 ミッドナイト・レイン(その1)
★
「勘弁してくれよ。バケツをひっくり返したみたいな雨だぜ。地下鉄の駅から二百メートルで『水も
研究室の入口の電子ロックが解除される音とともに、室内にぼやき交じりの声が響き渡る。
パソコンのマウスを動かす手を止めた冬夜の目に、金色に染めた髪をハンカチで拭きながら、唇を尖らせる健吾の姿が映る。全身びしょ濡れで水が
「珍しいね。内閣府バランサー・プロジェクト推進専門官様がこんな小汚いところにいらっしゃるなんて。しかも日付が変わりそうな時間に」
「いやいや。俺の掃き溜めみたいな職場に比べたらここは天国だぜ。NISNバランサー・プロジェクト
健吾はレンズの水滴を拭き取った、黒縁の眼鏡を掛け直してニヤリと笑う。
「ボクの推理したところでは、この雷雨は大河内くんが大臣を怒らせるような真似をしたのが原因。そして、大臣から身を隠すためにここへ逃げてきた。そんなところかな?」
「冬夜、お前はバランサー・プロジェクトが終わっても十分食っていける。ただし、警察や探偵には向いていない。小説家がお似合いだ。お前の小説は間違いなくベストセラーになる」
二人は顔を見合わせて、力が抜けたように「ふっ」と笑う。
「コーヒーでも
「おう、悪いな。仕事の邪魔しちまって」
「大丈夫だよ。切羽詰まっているわけじゃないから。プロジェクトは計画より半年以上速いペースで進んでるしね。今のところ、キミや大臣を怒らせるようなことにはなっていないよ」
冬夜は、部屋の隅のコーヒーサイフォンの方へゆっくりと歩いて行く。
「今のところってことは……いつかとんでもないことをやらかすってか?」
「そんなつもりはないよ。ただ、相変わらず見えない部分はあるからね。このコーヒーの中みたいに」
両手に白いカップを持った冬夜は、そのうちの一つを健吾に手渡す。
「サンキュー。でも、お前に限って『見えない部分がある』なんて思えないな。バランサー・プロジェクトもフェイズ・ワンは信じられないくらい順調で、来年からの実践テストが前倒しでできている。
しかも、
「何だかスゴイ褒めようだね。そんなに褒めたって、大河内くんの代わりに大臣には謝らないからね」
「だから、違うって言ってるだろ? 俺は親父に怒られるようなことはしていない」
健吾は、右手で冬夜の肩を軽く叩きながらコーヒーを
冬夜は小さく笑ってコーヒーを少し口に含む。
「今日来たのは、特に何かあったわけじゃない。あくまで情報交換のためさ。普段俺は大臣秘書みたいな役回りもやらされてる。激務で昼飯も食べられないことも結構ある。
ただ、親父にプロジェクトの最新情報を伝えるのは重要な役目だ。もちろん、告げ口じゃない。あくまで味方になってもらうためだ。だから、お前とは定期的にメールを交換してる。
とは言いながら、顔を突き合わさないと伝わらないことだってある。と言うことで、日付が変わる時間に、嵐の中、こうして馳せ参じたわけだ」
「でも、こんな時間に働いているのは、マジメな役人とズボラな学者ぐらいだよ。ボクがいなかったらどうしたの? 大河内くんが濡れ
「お前は後者の部類に入るから大丈夫だと思ってな……と言うのは冗談で、俺にはセキュリティ管理の観点から、研究所内のパソコンの稼働状況――ログを見ることができる。
帰りの地下鉄の中で確認したら、お前のパソコンは稼働していたからいるかと思ってな。ダメならダメでよかった。俺のマンションはここからなら歩いてでも帰れる」
健吾は残ったコーヒーを一気に飲み乾す。そして、髪と同じ色の薄黄色のネクタイを緩めてワイシャツの一番上のボタンを外した。
★★
「ところで、まだ教える気にはならねえか? ウィノナ・エレンブルグのことは」
「本当に『ところで』だね。唐突な話だ。その件については、どんなことがあってもノーコメントだよ」
冬夜は視線を逸らしてコーヒーカップを口に運ぶ。
「少しぐらいいいじゃねえかよ。どのあたりにいるとか、どんな感じの人だとか」
「何度も言うけど、いくら大河内くんの頼みでも、彼女の安全を脅かすような情報を漏らすわけにはいかない」
「お前は相変わらず堅いよな。役人向きかもしれない……コーヒーのお代わりもらうぜ」
健吾は空になったカップになみなみとコーヒーを注ぐ。
「でも、昔の写真なら見せてあげてもいいよ」
「なに? そんなのがあるのか!? そういうことは早く言えよ!」
「確かものすごい美人だって話だよな? ウィノナは」
「どうだろう? 三十四歳の頃の写真だけど、こんな感じだよ」
冬夜はポケットから写真ケースを取り出して、健吾の目の前で開いて見せる。
「おおっ! すっげえ美人……ブロンドの髪に大きな目に整った顔立ち。フランス人形みたいじゃねえ? それで天才なんだから『天は二物を与えた』ってことだよな……? それはそうと、お前、どうしてウィノナの写真なんか持ってるの?」
「これは……スウェーデンに行ったとき、ノーベル賞を共同受賞することになっていたグランフェルト博士にもらったんだ。彼女を探す手掛かりになればってね」
「でもよ、もうウィノナは見つかったんだろ? じゃあ、持ってる必要ないんじゃねえの?」
鋭い突っ込みだった。冬夜は改めて思った。「大河内健吾は侮れない」と。
ただ、ウィノナの正体がヘレナだとは口が裂けても言えない。
「わかったぞ。冬夜」
不敵な笑いを浮かべる健吾。冬夜は思わず息を飲む。
「お前……若い頃のウィノナに惚れたな? そうだろ? さっきの何かを隠している顔はそういうことなんだろ? 俺の目は誤魔化せねえからな」
「ま、まぁ、そんなところかな」
とりあえず冬夜は肯定した。健吾には、そっちの方向で勘違いしてもらった方が、厄介な話にならなくて済むと思ったから。
「叶わぬ恋だろうが、人を好きになるのは自由だ。悩みがあれば俺に相談しろ。伊達に年は取ってないからな」
「わかった。何かあればよろしく頼むよ」
冬夜は「三つ違いだよね?」という言葉を飲みこみながら、努めて笑顔で答える。
「そうそう! お前の妹もウィノナに負けず劣らずの美人じゃねえか? 確か『春日ちゃん』って言ったよな?」
「そっちはいいから」
写真ケースをそそくさとポケットに仕舞う冬夜に、健吾が白い歯を見せる。
「大丈夫だって。盗ったりしないから。お前、妹のこと、本当に好きなんだな?」
「そういうわけじゃないよ。今は見せるつもりがなかったから仕舞ったまで」
「わかった。わかった。今度本物をじっくり拝ませてもらうからな」
「そうだといいんだけどね……」
健吾の冗談交じりの言葉に、冬夜は小さく溜息をつく。
つづく
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