第4話 兄と妹(その2)


 その日から冬夜の図書館通いが始まった。

 インターネットで医学関連のサイトにアクセスしたり、分厚い医学書を読みあさったりした。

 両親が話していた内容について詳しく調べ、自分が春日のために何をすべきかを考えた。 


 心臓は全身の血管に血液を送り出すポンプのような役割を果たしており、正常な心臓は四つの部屋と四つの弁から構成される。心房から入ってきた血液を心室から送り出し、動脈・静脈二つのルートで血液循環を行うことで生命活動を維持している。


 詳しい病名はわからないが、春日の心臓は四つの部屋がはっきり分かれておらず、血液の逆流を防ぐ弁も十分に機能していない。

 足りない機能を人工の壁と弁で補う必要があり、そのため、生まれたときと、ある程度成長してからの二回、心臓の手術を受けなければならない。

 ただ、それで心臓が正常に機能する保証はなく、拒絶反応を起こすリスクは常に付きまとう。合併症を発症すれば、心臓移植を受ける以外に助かるすべはない。


 さらに、春日が心臓移植を受けるにあたって、越えなければならない、高いハードルが存在した。


 父・夏彦のRh血液型が陽性プラスで母・秋穂が陰性マイナスであることで、生まれてくる春日が陽性プラスだった場合、血液型不適合妊娠となる。そうなれば、貧血・黄疸等の症状が発症し死亡に至るケースも考えられる。

 生まれる前に血液検査を行った結果、春日は陰性マイナスであることがわかり、血液型不適合妊娠は回避できた。しかし、それ以上に大きなリスクがあることが明らかになった。


 春日と同じO型Rh陰性マイナスの血液型は、日本では一パーセント未満、世界でも六パーセントしか存在しない。臓器提供者ドナーが見つかる可能性も極めて低い。

 仮に見つかったとしても、心臓移植を行うには、移植後の拒絶反応を回避するため、臓器提供者ドナー被提供者レシピエント白血球の型HLA型が一致することが必要不可欠。それは、もはや「奇跡」のたぐいであって、春日への心臓移植は不可能と言っても過言ではなかった。


 春日を救うための選択肢は二つ。

 一つは異常な心臓を撤去して代わりに正常な心臓を移植すること。もう一つは異常な心臓を治療して正常な心臓にすること。

 前者が不可能であるとしたら、選択肢は後者のみ。ただ、現段階では有効な治療方法は存在しない。がそれを見つけ出さない限り。


 そのとき冬夜は理解した。自分が何をすべきかを。


★★


 ソファに腰を下ろした夏彦の顔を、冬夜は緊張した面持ちで見つめる。

 夏彦は小さく息を吐いて静かに話し始めた。


「お母さんは体力は落ちているが、身体に異常はない。あと四日もすれば退院できる。ただ、春日には大きな問題がある……心臓に重い病気があってすぐに手術を受けなければならない」


 時折言葉を詰まらせながら春日の病状を説明する夏彦。やり切れない気持ちが言葉の端々からにじみ出ている。

 一通り説明を終えた夏彦は、口を真一文字に結んで視線を足元に落とす。


 冬夜は心のどこかに一縷いちるの望みを抱いていた。あの夜から状況が変わっていることを願っていた。

 しかし、それははかない希望だった。すべては冬夜が理解したとおり。それ以上でもそれ以下でもなかった。


「お父さん、わかったよ」


 動揺する様子など微塵も見せず、冬夜は冷静な口調で言った。

 ゆっくりと顔を上げた夏彦がいぶかしそうに冬夜の顔を見る。


「冬夜……知ってたのか?」


「うん、何となく。お父さんとお母さんが話しているのが聞こえたから」


「そうか……」


 夏彦は目を細めてぐっと唇を噛む。


「お父さん、ボクが春日を助けるよ」


 何の躊躇ためらいもなく冬夜の口から飛び出した一言に、夏彦は驚きを隠せなかった。


『何を言ってるんだ? 小学生のお前に何ができるって言うんだ?』


 そんな言葉が口から出そうになった――が、夏彦はそれを呑み込んだ。

 なぜなら、穏やかな口調とは裏腹に、冬夜の瞳には強い決意がみなぎっているのが見て取れたから。

 さらに、次の一言を聞いて夏彦は「言わなくてよかった」と改めて思った。


「ボク、四月からT大附属へ転校する。そして、一日も早く医学の勉強を始める。お金がかかるけど、いつかきっと返すから。お父さん、お願いします」


 冬夜は夏彦に向かって深々と頭を下げた。


「冬夜……」


 夏彦は目に薄らと涙を溜めて唇を震わせる。

 何か言葉を掛けたかったが、言葉が出てこなかった。


 小学校入学時に行われたテストの結果、冬夜には教育省から国立T大学附属小学校への入学の申し出オファーがあった。それは、小中高一貫の特別教育を受けるもので、全国から集められた少数精鋭の児童に対する英才教育。成績次第ではによる進学も可能だった。


 冬夜はその申し出を断った。

 食肉用鶏ブロイラーが胃袋に餌を詰め込まれるように、欲してもいない知識を無理やり詰め込まれるのを苦痛だと感じたから。特別教育と称した詰め込み教育を受けることに何の魅力も感じなかったから。


 しかし、今は状況が違う。

 一刻も早い、医学部への入学が最優先事項となったことで、飛び級が可能な特別教育を受けることは、何物にも代えがたい、魅力的なものに映った。


「お父さん、もう一つお願いがあるんだ」


 冬夜は真剣な眼差しを夏彦に向ける。


「――ボクが春日のために医学の道へ進むことは、春日には絶対に言わないで」


「どうしてだ?」


夏彦は眉間にしわを寄せて首を傾げる。

冬夜は視線を逸らすと、遠くを見るような目をする。


「もしそのことを知ったら、春日はボクに負い目を感じる。きっと自分を責める。何も悪いことをしていないのに責任を感じるなんておかしいよ。ボクは春日にそんな思いをさせたくないんだ。だから、絶対に言わないで欲しい。『将来アメリカへ留学して医学の勉強をすることが小さい頃からの夢。いつも部屋に閉じこもっているのはそんな夢を叶えるため』。ボクのことはそう説明して欲しいんだ」


 冬夜の言葉は小学五年生になる子供のものとはとても思えなかった。

 夏彦は胸が締め付けられる思いだった。


「わかった。お母さんにも伝えておく……冬夜、ごめんな。お父さんが不甲斐なくて。お前にばかり苦労をかけて」


 申し訳なさそうな顔をする夏彦に、冬夜は首を横に振る。


「お父さんが謝ることなんかないよ。ボクがやりたいからやるんだ。ボクの手で春日を助けたいんだ。だって、ボクは――」


 冬夜は少し照れたように笑った。

 それが、冬夜が見せた最後の笑顔だった。


 その年の四月、国立T大学付属小学校に編入した冬夜は、中学・高校でもその神童ぶりを発揮し八年の教育課程をわずか五年で修了する。

 そして、関西の国立K大学医学部にトップの成績で合格し、生まれ育った家を後にする――春日が五歳になる年のことだった。



つづく

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