第57話 絶望と希望
★
キーボードを叩く音と無機質な電子音が響くコントロール・ルーム。
大河内健吾は、仁王立ちをする武蔵坊弁慶のように、胸のところで両腕を組んだままピクリとも動かない。
口を真一文字に結び鬼のような形相で見つめる先には、スタッフに指示を出しながら、自ら慌ただしく動き回る冬夜の姿があった。
「――バランサー・システムの通信レベルを最大まで上げて下さい! 被験者の前頭葉の左右から二百マイクロアンペアの電流を三十秒間流してください!」
唯一変化したと思ったのは、透明のアクリル板の向こうにいる冬夜の表情――その顔には明らかに焦りの色が浮かんでいた。
「冬夜……」
組んだ腕に手の指がめり込む。何もできない自分が
★★
冬夜は壁のデジタル時計に目を向ける。
冬夜は目を
しかし、いくら考えても代わりのピースを見出すことができない。
そのとき、何十、何百ものシミュレーションを展開できるはずの冬夜のコンピューターは沈黙していた。
荒い
春日の笑顔を見ていると焦る気持ちが大きくなり、頭の中が真っ白になった。
冬夜は
一粒の涙が
健吾は自分が目にしているものが信じられなかった。冬夜がこんな形で白旗を上げるとは思ってもみなかったから。
「冬夜! 泣いてるんじゃない! 俺の知ってるお前はこんなもんじゃない! 絶対に負けるわけがない! しっかりしろ!」
叫びながら涙が
「……大河内くん、シミュレーションが浮かばない……もう少しなのに……もう少しで手が届くのに……」
冬夜は身体を震わせながら、
「……春日、ごめん……ボクは約束を守れなかった……ボクは嘘つきだ……ダメなお兄ちゃんだ……」
冬夜は自分の無力さを実感して深い悲しみに打ちひしがれる。
健吾は何か言葉をかけなければいけないと思った。そうしなければ、冬夜がダメになってしまうと思った。しかし、言葉が出てこない。
「……ヘレナさん、許して下さい……ボクはあなたの期待に応えられなかった……ボクは……天才なんかじゃなかった……」
冬夜は握り締めた写真ケースをゆっくりと開く。白衣を
自分の力ではどうしようもない状況にあるのはわかった。同時に、誰かに頼れる状況でないのもわかった。ただ、このまま終わらせたくなかった。終わらせるわけにはいかないと思った。
極限状態に至った冬夜の脳裏に春日の笑顔が浮かんだ。絶対に守らなければいけない笑顔が。
次の瞬間、冬夜は発していた。半ば無意識のうちに。心の奥底から湧き出るような、魂の叫びを。
「ウィノナ、助けて! ボクを助けて!」
★★★
コントロール・ルームに設置されたバランサー・サーバーから重低音があがる。まるで地震でも起きたかのように部屋が小刻みに揺れている。
あたりが騒然となる中、端末を操作するスタッフの一人が驚きの表情を浮かべた。
「モニターに……『バランサー生成』の表示が出ています!」
健吾は、条件反射のようにベッドに横たわる温人に目を向けた。
しかし、何も変わった様子はない。
冬夜は、虚ろな眼差しをバランサー・サーバーへと向けた。
ふと彼は違和感を覚える。誰かが背中に抱きついている感触があったから。
しかし、目の前にある、透明のアクリル板には自分の姿しか映っていない。
『キミは嘘つきなんかじゃない。私がキミを嘘つきにはしない――絶対に』
耳元で誰かが
ゆっくり振り返った冬夜の目にある女性の姿が映った。
透き通るような白い肌。
『ウィ……ノナ……? ウィノナ!』
見開いた瞳から溢れ出した涙が
女性は白いほっそりとした指で涙を払うと、優しい笑みを浮かべる。
『この姿では、はじめましてだな。キミのバランサーになったウィノナ・エレンブルグだ。少し年上だが、よろしく頼む。でも、心配したぞ。キミがなかなか名前を呼んでくれないから』
ウィノナの言葉を聞いた瞬間、冬夜は何かを悟ったような顔をする。
『ドロシーさんと約束したから。ヘレナさんのことをウィノナと呼ばないって』
『相変わらず律儀だな。でも、こうしてキミのバランサーになれたということは気持ちが一致したという理解でいいんだな?』
ウィノナは少し照れたような表情を浮かべる。
『そうだ』
冬夜は慌てて立ち上がると健吾の方に目をやる。
「大河内くん!」
「冬夜、大丈夫か? 急に泣き出したと思ったら、黙ったまま動かなくなっちまって。何があった?」
健吾が心配そうに訊ねる。
冬夜以外にはウィノナの姿は見えていない。
「
「成功した? 伊東温人はまだ眠っているぞ……? とりあえず管理者モードに切り替えてくれ」
スタッフの一人がノートパソコンの端末を管理者モードに切り替える。
モニターに白いワンピースを
「お、おい、冬夜……この美人はもしかして……ウィノナ・エレンブルグか!?」
健吾は黒縁の眼鏡を外して目を
その光景を目の当たりにしたウィノナは首を傾げる。
『冬夜、あの男は私のことを知っているのか?』
『うん。大河内くんにはキミの写真を見せたからね。彼はボクの大切な友達だよ』
「しゃ、しゃべってる……俺の声も聞こえてるのか!? は、はじめまして! ええっと、内閣府って英語で何て言うんだ……? ええい、面倒くせえ! My name is Kengo Okochi! Nice to meet you!」
『冬夜の友達か。じゃあ、挨拶しておかないとな――私はウィノナ・エレンブルグ。冬夜のバランサーだ。よろしく頼む』
ウィノナは、両手の指先でワンピースのスカートの縁をつまむ。そして、膝を軽く曲げてペコリとお辞儀をした。
「ウィノナ、キミに頼みがある!」
思い出したように冬夜が大きな声を上げる。
『それは、妹の
『そうか。ウィノナはボクの記憶を……でも、どうすればいい? 温人くんの意識が戻らなければ、春日の
『さっきも言ったはずだ。私は絶対にキミを嘘つきにはしないと』
腰まで伸びた、長いブロンドの髪を両手で背中に流すと、ウィノナは「ふっ」と
『冬夜、キミと私が手を組めばできないことはない。なぜなら――私たちは天才だから』
つづく
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