第58話 バランサーズ
★
『冬夜、確認だ。意識のない「重度」の精神疾患者にはバランサー・システムは効果がないんだな?』
ウィノナが真剣な顔で訊ねる。
『意思表示ができない疾患者は
『わかった』
ウィノナは両腕を胸の前で組みながら小さく頷く。
『では、疾患者本人のバランサーが生成できないのだから、
『その通りだけど……まさか、温人くんの
『そんなことはわかってる。冬夜、学校で教わらなかったか? 「先生の話は最後まで聞きましょう」と……キミは一を聞けば十がわかるから聞く必要もないか?』
ウィノナはブロンドの髪を掻きあげて「ふふっ」と含み笑いをする。
『こんなところで、超人研究が役に立つとは思わなかった』
『それは、どういうこと?』
冬夜は思わず訊き返す。「一を聞いて十を知る」冬夜でもウィノナの意図を計り知ることはできなかった。
『睡眠薬や睡眠導入剤を大量に飲んで自殺を図るというのは、昔からある話だ。ただ、そんなリスクがあるにもかかわらず、薬の成分はほとんど改良されていない。四十年前と状況は何も変わってはいない。
超人研究で、被験者に睡眠薬を大量に飲ませて神経器官に与える影響を調べた時期がある。その中でわかったことだが、海馬は機能障害に陥ったように見えて、完全に死んでいるわけではなかった。
細胞は三、四日かけて少しずつ死んでいく。言い換えれば、細胞レベルでは、三、四日は生きていた。つまり、伊東温人が睡眠導入剤を服用したタイミングを考えれば、彼の海馬は死んではいないということだ』
ウィノナの話を聞きながら冬夜は曖昧に首を縦に振る。今一つ納得がいかなかったから。
『ウィノナの言っていることはわかる。でも、いくら海馬が細胞レベルで生きていたって、機能を果たせないことに代わりはない。意識が戻らない限り「重度」の疾患者にはバランサーは生成できない。そう考えれば、結論は変わらないよ』
『普通に考えればそうだ。ただ、今の私は普通ではない』
『普通では……ない?』
冬夜は
ウィノナは勝ち誇ったように「ふふん」と鼻先で笑う。
『私がバランサーとして伊東温人にアクセスする。ただ、
彼の中に格納されている膨大な記憶の中から大切な記憶――姫野春日との思い出を選別して彼に認識させる。そして、意思表示させる。
もちろん、そこに居座るつもりはない。一時的な行為であって、本人が意思表示をした後は「適任者」にバトンタッチする。あとは「適任者」がバランサーとして海馬の役割も担えばいい』
『ウィノナ……やっぱり、キミは天才だ!』
冬夜は感嘆の声を上げる。
『キミはボクの中にある温人くんと春日の記憶を共有している。だから、温人くんの中にある記憶のうち起爆剤として使えるものを識別するわけだね?』
ウィノナは両手をワンピースの腰に当てて胸を張る。そして、得意気に首を縦に振る。
『そうと決まれば、一刻も早く実行に移そう。海馬が完全に機能を失ったら終わりだからな』
『わかった。これからスタッフに話をして準備をするよ』
★★
「――
「わかりました。では、温人くんの意思表示があればすぐにバランサーが生成できる準備をしておいてください」
スタッフの意見が冬夜と一致したことで、計画はすぐに実行に移される。
『じゃあ、行ってくる』
そんな言葉とともに、冬夜の視界からウィノナの姿が消える。電磁媒体であるウィノナは一旦バランサー・サーバーに戻って、そこから温人の脳にアクセスした。
『冬夜、聞こえるか?』
冬夜の頭の中にウィノナの声が響く。
『うん、聞こえるよ。上手くいきそう?』
『それが、思った以上に厄介だ。脳内に蓄積されている情報量が半端じゃない。伊東温人は二十一歳だが、それでも記憶量は膨大だ。一つずつ見ていったら何ヶ月かかるかわからない』
『そんなに時間は掛けられない。温人くんの海馬がもたない』
『心配するな。あくまで「普通にやったら」ということだ。以前キミにも話しただろう? 超人研究の成果として「大脳皮質の記憶地図」がある。五感を使って取得した記憶が格納されている領域を特定し、それぞれに電気的刺激を与えれば記憶が掘り起こせることを確認している。それでも、チェックする情報量は五分の一にしかならない。そこで、
『
初めて聞く言葉に冬夜は訊き返す。
『キミの脳内にある、伊東温人と姫野春日の記憶で、彼の琴線に触れるようなものを提示してくれ。それを電気信号に変換する。同様に、伊東温人の大脳皮質の特定領域にある記憶もすべて変換して、両者を
ただ、キミが選んだ記憶が事実と異なっていては
『わかった』
冬夜は小さく深呼吸をする。
考えてみれば、春日とまともに話をしたのは、十二月二十五日から一月六日の二週間足らず。しかも、温人のことは、はっきりと話してくれなかった。「それは事実か?」と訊かれたら、百パーセントそうとは言い切れない。
温人とも電話やメールで情報交換をしてきたが、春日との思い出をこと細かに話したことはない。
冬夜はもともと口数が少なく社交的な性格とは言い難い。この重大な局面でそのことがネックになるとは思わなかった。
シミュレーションを展開することもできない。ウィノナに相談することもできない。まさに「直感」が問われる場面に遭遇していた。
冬夜は目を
印象に残っているのは、ロスに向かう飛行機の中でのこと。あのときの春日はとても好感が持てた。しかし、それはあくまで冬夜と春日の思い出であって、温人の琴線に触れるとは思えない。
冬夜は、眉間に皺を寄せて考えた。
額に手を当てて考えた。
腕を組んで考えた。
天を仰いで考えた。
こんなに悩んだのは生まれて初めてだった。
「よし……」
目を開くと同時に、口からそんな言葉が漏れた。
『決まったみたいだな。それでいいか?』
『それでいい』
そのときの春日はとても幸せそうだった。
そんな春日の気持ちを感じ取ったら、温人は同じぐらい幸せな気持ちを抱くに違いないと思った。
「温人くん、頼んだよ」
冬夜は診療台に横たわる温人に向けてエールを送った。
★★★
『……バカ野郎……どさくさに紛れて……顔を見て言えっての……』
冬夜の頭の中で春日の声が聞こえた。
それは、春日がPT措置を受ける直前に温人と交わした、最後の言葉。
頬を涙で濡らしながら、春日はとても幸せそうな
温人の海馬は瀕死の状態。しかし、一部の細胞は生きている。
その細胞を使って、ウィノナは最低限の機能を回復した。そして、膨大な記憶の中から冬夜の中にある記憶と同じものを掘り起こし、海馬に認識させた。
それは、天才である二人だからできたこと。そして、ウィノナが冬夜のバランサーとなることで初めて可能となったものだった。
「……春日……さん……」
しゃべれないはずの温人の口から微かに声が漏れる。
冬夜はスタッフにバランサー通信の出力レベルを最大限に上げるよう指示する。
その場にいる全員が温人の方に祈るような視線を向けた。
「……僕は君が好きだ……いつもそばにいて欲しい……死ぬまで春日さんといっしょにいたい……」
温人の口から「意思表示」と取れる言葉が発せられる。
次の瞬間、コントロール・ルームのバランサー・サーバーが重低音を発し、部屋全体が地震のように揺れ始めた。まるでデジャブを見ているようだった。
「モニターに『バランサー生成』の表示が出ています! 管理者モードに切り替えます!」
スタッフが興奮気味に叫ぶと、室内は歓声と拍手に包まれる。
冬夜は慌ててコントロール・ルームへと向かう。そんな彼の動きを制するようにスタッフが声をかける。
「姫野さんはそこにいてください!
その場に立ち止まった冬夜は、
「よぉ、久しぶり」
そこには、セーラー服を着た、一人の女子の姿――ショートヘアの前髪を、赤い花があしらわれたバレッタで留めた女子の姿があった。
涼しげな瞳を細めて、はにかんだような笑みを浮かべている。
「兄貴がこいつを助けてくれたんだよな?」
春日が隣りに目をやると、ベッドの上に座っていた温人は立ちあがって冬夜に深々と頭を下げる。
「兄貴は約束を守ってくれた」
春日の瞳から真珠のような大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「兄貴は……あたしの自慢の兄貴だ……あたしは……兄貴の妹でよかった……ありがとう」
冬夜の口から言葉は出なかった。視線を足元に落として、唇を震わせながら
冬夜の左右の肩に誰かが手を添える。
「お疲れさん。やっぱりお前は俺が見込んだだけの男だったぜ。絶対に俺のブレインになってもらう」
右肩に手を置いているのは、大河内健吾。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった、その顔は冬夜の比ではない。
「ありがとう。大河内くん。ボクはキミの力になる。約束するよ」
二人は握った
左肩に手を置いているのは、ウィノナ・エレンブルグ。
穏やかな笑みを浮かべて、潤んだ瞳で冬夜をジッと見つめている。
『ウィノナ、本当にありがとう。キミがいなかったら春日は助からなかった。ボクは一生かけてキミに恩を返す。キミのためなら何だってする』
その瞬間、ウィノナの顔から笑みが消える。どこか緊張した様子が見て取れる。
『冬夜、何でもするんだな?』
『うん。何でもするよ』
ウィノナは視線を逸らして、少し恥ずかしそうな表情を浮かべる。
『じゃあ、手始めに……目を
『そんなことしてどうするの?』
『ちょ、ちょっとした実験だ。早くしろ。何でも言うことを聞くんだろ?』
ウィノナの言葉に首を傾げながら、冬夜はゆっくりと目を
間髪を容れず、唇に柔らかくて温かい何かが触れる。体温が急激に上昇していく感覚を覚えた。
目を開けると、ウィノナが背中を向けて立っていた。
『こ、これはあくまで実験だ。
しばらくの間、ウィノナは背中を向けたまま顔を見せなかった。
冬夜は心の中で改めてウィノナに感謝した。
春日と温人はうれしそうに話をしている。バランサーとしての春日が
『どのピースが欠けてもパズルは完成しなかった』
冬夜は四人の姿を順番に見つめながら、心の中で呟いた。
『ボクは天才じゃない。でも、奇跡を起こすことはできた』
つづく(エピローグへ)
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