第56話 ミッドナイト・レイン(その3)


 雷鳴らいめいが轟き、突風が吹きすさぶ、激しい豪雨の中、まばゆいサーチライトとともに、軍用ヘリ「MNR-2023」が国立精神・神経研究所NISN屋上のヘリポートに着陸した。

 機内から人工呼吸器を装着した伊東温人がストレッチャーで運び出されると、待機していた、NISNのスタッフがエレベーターのところへ誘導する。


 ストレッチャーが第一手術室に到着するや否や、冬夜は付き添いの医師に温人の容体を確認する。

 温人は、鬱病うつびょうの治療薬として処方された睡眠導入剤・ソメイユを大量に服用したことで意識障害に陥り、医師の問い掛けにも反応を示さない状態にあった。

 ソメイユは世界中で使われている、スタンダードな薬品であり、それ自体に危険性は認められない。ただし、一度に大量摂取すれば話は別で、過去にも命に関わる事象がいくつか発生している。

 温人の症状を聞く限り、一時的に意識を喪失する失神などではなく、神経器官に重大な損傷が生じている可能性が高かった。


 冬夜は付き添いの医師と搭乗員クルーに丁寧に礼を言うと、スタッフにバランサー手術の準備を指示した。

 手術の内容は脳の特定箇所に八つのバランサー・チップを埋め込むもので、かかる時間は約二時間。開頭手術ではあるが、AIを搭載したロボットがプログラムに従って行うため、難易度は、裂傷した皮膚を縫い合わせる外科手術より少し高い程度。

 通常は、チップが収集した脳内情報をバランサー・サーバーに転送し、そこで宿主ホストに最適なバランサーを生成する。これは「Phaseフェイズ Oneワン」と呼ばれるもので、既に十件の成功例がある。

 しかし、温人の場合は術後の扱いが異なる。Personarity TransferPT媒体をバランサーとする措置――春日の蘇生措置が施される。これは「Phaseフェイズ Twoツー」と呼ばれ、成功例はまだない。


★★


「どうだ? 伊東温人の様子は」


 手術の様子をモニターで監視する冬夜の肩越しに健吾が話し掛けてきた。


「あまり良いとは言えない。たぶん海馬に損傷が出ている。睡眠薬を大量に摂取して自殺をしようとした者によくある症例だよ」


「海馬? タツノオトシゴのことか?」


大脳辺縁系だいのうへんえんけい――いわゆる『馬の脳』にあるタツノオトシゴのような形をした器官だよ。日々取得した情報はそこにファイリングされて、その後、大脳皮質――『人の脳』へ送られるんだ。

 海馬は別名『記憶の司令塔』と呼ばれる、精密機械のような器官で、機能しなくなることで新しいことが覚えられなくなるし、古い記憶のアクセスにも少なからず影響が出る。

 ショッキングな出来事に遭遇したり悲惨な経験をすることで心的外傷後ストレス障害PTSDが生じることがあるけど、あれは恐怖やストレスによって海馬に異変が生じた状態だよ」


「要は、伊東温人の記憶の司令塔が機能していないってことか……バランサー・システムで治療できないのか?」


 健吾の質問に、冬夜は監視モニターを見つめたまま厳しい表情を浮かべる。


「バランサーさえ生成できれば、神経器官がダメになっても代役を担ってくれる。でも、意識がなかったり、自分が誰だかわからない状態では、バランサー自体が生成できない。重度ではバランサー・システムは機能しない」


「でも、お前、言ってたよな? 重度でもバランサーを生成して、宿主ホストを構成できる手立てがあるって――」


「あるにはある。でも、それは、パソコンで言う『初期化イニシャライズ』。人格や記憶をクリアにして一から教え込むんだ。

 神経器官の障害が原因で植物人間と化した人を救済する方法だよ。外見は変わらないけど中身は別の人間に生まれ変わる。『人の命を救う』という観点からは有効だけど、本人にとってそれは救済と言えるのかどうか……個人的には使いたいとは思わない」


「そうだよな。自分が自分じゃなくなっちまうんだからな。伊東温人がそうなったら、お前の妹も……でも、宿主ホストは温人じゃなくてもいいんじゃないのか? お前とか、お前のお袋さんとか」


 健吾の言葉に考える素振りを見せる冬夜だったが、すぐに首を横に振る。


「可能性はゼロじゃないけど極めてゼロに近い。春日がPT媒体化する前に、温人くんの印象を強く刷り込んできたのは、宿主ホストは温人くんしかいないことを意識させるため。それにより成功確率を高めようとしたんだ。今となっては、温人くん以外の者が入り込む余地はない。

 それに、ボクのバランサーはヘレナさん以外あり得ない。彼女を裏切ることは絶対にできない」


「じゃあ、決まりだな。最善を尽くそうぜ。伊東温人の意識を回復させるためによ。大丈夫。お前は俺の眼鏡に叶った、数少ない男だ。絶対に何とかする。俺はお前のことを百二十パーセント信じてるぜ」


 健吾は白い歯を見せながら冬夜の肩をポンと叩く。


「いつもながら、ありがたいプレッシャーだね。大河内くんの期待に応えられるようがんばるよ」


 笑顔を見せる冬夜だったが、これまで経験したことのない、大きなプレッシャーを感じていた。

 なぜなら、そのときの冬夜には、温人の意識が戻らなかったときのシミュレーションが全く見えていなかったから。


★★★


 二時間が経った頃、パソコンのモニターに「FINISH」の文字が表示される。同時に、電子音が鳴り響いた。温人のバランサー手術が正常終了した。


「これからPhaseフェイズ Twoツーの措置を行います。それぞれ持ち場に着いてください」


 冬夜はモニターに装着されたマイクでスタッフに指示をすると、素早く白衣を身にまとって第一手術室へと向かった。

 手術室の中は半透明のアクリル板で二つのスペースに仕切られ、一方には、温人が寝かされた手術台が置かれ、もう一方には、バランサー・サーバーと六台の操作端末が並んでいる。いわゆる「コントロール・ルーム」だ。


 スタッフは冬夜と健吾を入れて十二人。手術台の周りには、ヘッドマイクをつけた冬夜と生体データをチェックする三人のスタッフが、コントロールルームには、健吾とシステムを操作する七人のスタッフが、それぞれ配置された。


「では、Phaseフェイズ Twoツーの措置を開始します。先程説明したとおり、被験者は意識が失われた状態にあり、海馬が損傷している可能性が高い。もし機能を失っている状態――『重度』であればバランサー・システムではどうにもなりません。しかし、少しでも機能していれば可能性はあります。

 可能性がある場合、チップとサーバーが通信を始めて三十分以内に何らかの反応があります。もし三十分を過ぎて何もなければ……脳死と判断せざるを得ません。これから三十分、皆さんの力をボクに貸してください」



 つづく

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