第46話 ヘレナの想い


「ドロシー、おはよう」


 キッチンで朝食の準備をしていたドロシーの耳にヘレナの声が聞こえた。

 時刻は六時三十分。いつもより二時間早い起床に、ドロシーは慌ててリビングへと向かう。


「おはよう。ヘレナ。今朝は早いのね。明告鳥ニワトリの代行でも始めたの?」


 冗談を言いながら白い歯を見せるドロシーだったが、ヘレナの顔を見た瞬間、笑みが消える。様子が尋常でないのがわかったから。

 その顔には、いつになく緊迫感と悲壮感が漂っていた。


「ヘレナ、何かあったの?」


 心配そうにたずねるドロシーに、ヘレナは銀縁の眼鏡を外しながらリビングのソファに腰を下ろす。


「ドロシーに言っておかなければいけないことが三つある」


 ドロシーはヘレナの対面に腰を下ろして上半身を乗り出した。


「一つ目は、さっき冬夜からメールが入った。心臓を患っていた妹が合併症を起こした。冬夜は日本へ戻る。だから、今夜のパーティーに来ることができなくなった」


「問題ないわ。それより妹のことが心配ね。大丈夫なの?」


「それが二つ目の話。妹の容体はよくわからない。ただ、脳死に至る前に何としてもNIHに搬送する。そして、Personarity TransferPTの措置を施す。私はその関係で今からNIHへ行く。何時いつ帰れるかはわからない」


「それも問題ないわ。『イブの夜に七面鳥ターキーを食べなければならない』なんて法律はどこにもないから、明日以降に回せば済むことよ」


 ドロシーは「そんなこと?」と言わんばかりに、拍子抜けしたような顔をする。


「三つ目の話」


 ヘレナは小さく息を吐いてドロシーの顔をジッと見つめる。その顔は何か重大な決意を秘めているように見えた。


「明日も七面鳥を食べることはできない……ドロシー、私のわがままを聞いて欲しい」


「改まって何? 『姫野冬夜といっしょに日本へ行く』なんて言ったら即NGだけど」


「アメリカからもロスからも出ることはない。ドロシーの目の届くところにいる」


「それなら問題ないわ」


 ドロシーはホッとした表情を浮かべて、二度三度、首を縦に振る。


「PTは来年――二〇二〇年の終わりには一般導入を予定している。人を使った実験も今年で四年目を迎えるが、順調に来ている。

 ニワトリの卵が孵化ふかしたときに正常か異常かが判断されるように、PTの個別の実験結果は、人として蘇生できるかどうかで決まる。言い換えれば、現時点で○か×かは明確にはわからない。

 しかし、ニワトリの卵を非破壊検査で調べることができるように、PTについても措置の状態がある程度確認できる。

 今年の正常割合は約九十四パーセント。テストを開始した二〇一六年こそ七十五パーセントにとどまったが、少しずつ伸びて来ている。

 最終的な評価を下すのは、冬夜が設計したバランサー・システムの『Phaseフェイズ Twoツー』で、PTが宿主ホストのバランサーとして機能するかどうかによる。もちろん、両者の相性があることから、NGだったとしてもそれを全てPTの不具合として処理することはできない――」


「ヘレナ、話の腰を折るようで悪いけど、何が言いたいの? NIHに出掛けるなら、早めに朝食を食べないといけないでしょ? そのためには、私は早く準備をしなければいけないの。言いたいことがあるなら、手短に言ってちょうだい」


 ヘレナの説明が要を得ないことで、ドロシーは苛立いらだつような言い方をする。


「わかった。簡潔に説明する。冬夜の妹はPTの措置を受けた後、バランサー・システムの被験者になる。

 その前に……私が被験者になる。そのために、今日か明日、私はPTの措置を受ける」


「なっ……」


 ドロシーは言葉を失う。目を見開いて「信じられない」といった顔をする。


「ドロシー、お願いがある。冬夜に会ったらこのことを話して――」


「何、馬鹿なこと言ってるの!」


 間髪を容れず、ドロシーの大きな声がヘレナの声をさえぎる。


「そんな説明で『はい、わかりました』なんて言えるわけがない! ヘレナ、自分の言っていることがわかっているの!? あなたはPTについて誰よりも詳しい。PTの措置を受けたら人としての機能が停止することもわかっている。それは『植物人間』と何ら変わらない。どうしてなの? どうしてバランサー・システムに――姫野冬夜にそんなに拘るの!?」


 ドロシーは目に涙を溜めて全身を震わせる。「ヘレナを失いたくない」。そんな気持ちが身体中から溢れ出ている。


「ドロシー、ごめんなさい。でも、私は冬夜のことを百パーセント信じている。バランサー・システムは計画通り稼働する。そう確信している。私の研究と彼の研究が一つになったとき、何が起きるのかを知りたい」


「それなら自分が被験者になる必要なんてない! 科学者がそんなことをするなんて聞いたことがないわ! こんなことであなたを失ったら、三十年間、私があなたを守ってきた意味が無くなってしまう! お願いだから、思いとどまって!」


 ドロシーの目から涙がこぼれ落ちる。

 ヘレナはゆっくり立ち上ると、後ろからドロシーの両肩を抱き締めた。いつか彼女がしてくれたように、


「私は冬夜の力になりたい。冬夜の願いを叶えたい。そのためならなんだってやる」


 ヘレナはドロシーの肩にあごを乗せて耳元で囁く。

 ドロシーは鼻をすすりながら首を横に振る。

 

「どうして今なの? バランサー・システムが稼働するのはまだかなり先でしょ? そんなに急ぐ必要なんかないでしょ?」


「今じゃないと意味がない。それは、冬夜の力をもっと引き出したいから。妹だけではなく、私がPT措置を受けたら、きっと彼はもっとがんばれる。もっと成長できる。結果として、妹を救うことができる。

 だから、バランサー・システムの製作に着手する前にを作っておかなければいけない」


 ドロシーは返す言葉がなかった。冬夜に対する、ヘレナの気持ちが特別なものだとは思っていたが、まさかこれほど重いものだとは思ってもみなかった。


「どうしてPTの措置を受けることを私に言ったの? このままNIHに行って、そのまま帰って来なければ終わりだったのに」


 ドロシーの言葉に、ヘレナは彼女の前に回り込んで、床にひざまずくように座る。そして、満面の笑顔を浮かべた。


「親友だから……ドロシーは私の大切な親友だから」


 その瞬間、ドロシーの顔がぐちゃぐちゃになる。

 ヘレナはドロシーを強く抱きしめる。


「絶対に会える。忘れなければ会える。だから、忘れないで」


 二〇一九年十二月二十四日、ヘレナは国立衛生研究所NIHを訪れ、PT措置の被験者契約書にサインをする。

 スタッフには、急性白血病のため余命三ヶ月だと説明し、措置後のPT媒体はドロシーに預けることで了承を得た。



 つづく

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