第50話 幸せな休息


 春日が日本を発った翌年の一月六日、彼女からのメールを開いた温人の顔がみるみる曇っていく。

 時刻は二十三時十五分。時差が十七時間あるため、ロサンゼルスは朝の六時過ぎ。


『あたしの心臓もう限界だ 今日の午前中PT措置を受ける メールはこれが最後だ できれば、あたしのこと忘れないでくれ そうすれば、またお前に会えるから じゃあな PS返事はいらないぜ』


 身体の震えが止まらなかった。今までにないくらい心臓が激しく高鳴り、このまま息が止まるのではないかと思った。

 羽田空港で春日を見送ったとき、覚悟を決めたつもりだった。しかし、渡米後もメールのやり取りができたことで、無意識のうちに、ずっとそんな関係が続くことを期待していた。


 冬夜から受けた、バランサー・システムの説明はSF映画に登場しそうな話だった。内容は難しかったが、自分なりに理解することができた。また、実現しそうな気がした。

 なぜなら、システムを作ろうとしているのが「希代の天才」とうたわれた冬夜であり、長い間、春日の命を救うために研究を続けてきたのだから。

 「春日さんは死ぬわけじゃない。しばらく休むだけ」。何度も自分に言い聞かせた。しかし、不安と悲しみを払拭ふっしょくすることはできなかった。


「春日さん……」


 名前を口にした瞬間、涙がこぼれた。

 自分でも情けないと思いながら、涙が止まらなかった。


 春日は先天性の重病を抱えて苦しんでいた。しかし、弱音を吐くことなくずっと戦ってきた。しかも、そんな状況であるにもかかわらず、温人に優しくしてくれた。そして――PT媒体となることを受け入れた。

 PT媒体となることはとても勇気がいる。明るく振る舞ってはいたが、大きな不安で小さな身体が押しつぶされそうだったはず。「本当は辛い胸の内を聞いて欲しかったのでは?」。温人は思った。


 春日との距離は約八千七百キロ。温人の心の声が聞こえる範囲をはるかに超えている。ただ、「何もできない」と言うことではない。一人でめそめそしていること以外に、きっとできることがあるはずだ。


 温人は服の袖で涙をぐいっとぬぐうと、春日がどんな気持ちでいるのかを考えた。自分が何をすべきかを考えた。

 もう一度春日のメールに目をやった。最後の一文「PS返事はいらないぜ」のところで目が止まった。

 それまでの温人であれば、きっと文面通り受け止めただろう。「春日さんがそう言うならいいか」とそのままやり過ごしただろう。しかし、そのときは違った。


『返事を聞かせて』


 温人はメールの文面から春日の声を聞いた。

 すぐにスマホの電話帳で春日の番号を呼び出す。

 突然PT措置の話題が出たと言うことは、春日は話ができないぐらい体調が悪いということ。しかし、温人は躊躇ためらうことなく「発信」をクリックした。

 発信音が鳴る。十回続いたが誰も出ない。「春日さん、出て」。温人は心の中で願った。


「……もしもし」


 十五回目のコールで春日が電話に出る。声を聞いた瞬間、いつもの春日でないことはわかった。


「春日……さん」


「……メール……ちゃんと読めよ……『返事はいらない』って……言っただろう……」


 春日は息絶え絶えに、今にも消えてしまいそうな声で言った。


「ごめん。どうしても伝えたいことがあって。春日さんはしゃべらなくていい。僕の話を聞いているだけでいいから」


 春日はぜーぜーと苦しそうに息をつく。周りは騒々しく英語が飛び交っている。PT措置の準備が慌ただしく行われているのがわかる。

 温人は努めて満面の笑みを浮かべた。


「僕は春日さんのことを絶対に忘れない。このまま会えなくなるなんて耐えられない。だって、僕は……春日さんが好きだから」


 電話口からは相変わらず苦しそうな呼吸が聞こえる。

 しばらくそんな状態が続いた後、温人は思い立ったように小さく頷く。


「じゃあ、切るね」


 温人が電話を切ろうとした、そのときだった。


「……バカ野郎……どさくさに紛れて……顔を見て言えっての……」


 さっきより声だった。

 ただ、さっきほど苦しそうではなかった。


「ごめん。次に会ったときは面と向かって言うから……またね! 春日さん」


「……」


 春日は何も言わなかった。「言えなかった」が正しいのかもしれない。

 ベッドの脇で、春日の耳にスマホをあてがっていた冬夜は、春日の頬を流れる涙をハンカチで優しく拭うと、再び人工呼吸器を口元に当てた。

 冬夜は思った。「春日はとても幸せそうな表情かおをしている」と。


 一月六日は、春日を知る者にとって特別な日となった。


★★


 二〇二〇年三月一日、「精神疾患治療促進法」が施行され、バランサー・プロジェクトが本格的に動き出す。

 内閣府バランサー・プロジェクト推進専門官「大河内健吾」は、プロジェクト責任者である担当大臣「大河内健蔵」の指示のもと、法律の施行に合わせて、効果的な推進体制の構築を図る。

 「国立精神・神経研究所(NISNニースン:National Institute of Spirit and Nerve)」にバランサー・システムの研究・開発を委託し、医療機器に明るい、システム・エンジニアとプログラマー九十人を確保する。そして、その指揮をとる主任研究員として、NIHから「姫野冬夜」を招請した。


 三月五日、NIHに休職届けを提出した冬夜はロサンゼルス発成田行きの便で日本へと向かった。

 入国手続きを終えて国際線の南ウイングに降り立つと、冬夜はスーツのポケットから写真ケースを取り出す。そこには、二枚の写真――白衣をまとった「ウィノナ・エレンブルグ」と、ベッドに座る「姫野春日」の写真があった。


 冬夜は二人に真剣な眼差しを向けながら、スーツの内ポケットの上に右手を添える。内ポケットには、冬夜にとって命と同じぐらい大切な物――二つのPT媒体が収められている。

 

「ヘレナさん、春日、日本に着いたよ。必ず蘇生するから。ボクのバランサー・システムを使って」

 

 冬夜は二人に話し掛けながら、胸に抱いた、揺るぎない決意を改めて確認した。



 つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る