第5部 約束 The geniuses never break their promises

第49話 夜間飛行


 十二月二十七日二十三時三十分、冬夜と春日は、羽田発ロサンゼルス行の便で日本を発った。


 安静が必要な春日を十時間以上飛行機に乗せるというのは、常識的な判断とは言い難い。そのことは冬夜も重々承知していた。

 しかし、時間が経てば経つほど状況が悪くなることは明らかであり、あえて強行した。

 とは言いながら、何も考えず闇雲やみくもに行ったわけではない。

 春日をシートに座らせるのは現実的ではないことから、ファーストクラスの席――ゆったりとしたベッドが備え付けられた、個室のようなスペースを確保した。

 また、異常が生じたときのために、緊急対応機器や薬品を準備するとともに、「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」といった、映画のような状況に陥らないようを同行させた。

 その役割を担うのは、もちろん冬夜。専門は神経科ながら循環器内科の知識も十分持ち合わせている。


★★


 春日が眠っているベッドの脇で、冬夜はパソコンを立ち上げてPT措置の段取りを確認する。

 飛行機がロサンゼルスに到着する時間が決まった後、国立衛生研究所NIHに連絡を入れてスタッフに調整を依頼した。しかし、回答のメールはまだ返って来ない。

 十時間後に到着することを考えれば、既に連絡があってもいい頃だった。

 心配になった冬夜はスマホでスタッフに連絡を取る。


「冬夜? ちょうど今、君のアドレスにメールを送ろうと思っていたところだよ」


 スタッフから「そば屋の出前」のような答えが返ってくる。続いて、パソコンにメール受信の案内が表示される。


「――そうだ。カーペンター博士のことは聞いたかい?」


 電話を切ろうとした冬夜に、スタッフがポツリと言った。


「ヘレナさんがどうかしましたか?」


「その様子だと、知らされていないみたいだな」


 スタッフは奥歯に物が挟まったような言い方をすると、ヘレナがPTの被験者となったことを告げる。


「まさか、カーペンター博士が急性白血病で余命三ヶ月とはね。全然知らなかった――」


 会話の途中だったが、冬夜は電話を切った。そして、すぐにヘレナの携帯に電話をする。しかし、何度掛けても「プーッ、プーッ」という音がするだけでつながらない。


 時刻は二十四時三十分――ロサンゼルスは八時前。本人が出ないのはわかるが、繋がらないというのは尋常ではない。

 冬夜はヘレナの自宅に電話を掛ける。この時間ならドロシーは間違いなくいると思ったから。


「もしもし」


 すぐにドロシーが電話に出る。


「ドロシーさん、冬夜です。ヘレナさんを出してもらえませんか?」


 冬夜は焦ったような口調で言った。一刻も早くヘレナの声を聞いてスタッフの情報が間違いだったことを証明したかったから。

 しかし、ドロシーは黙ったままだった。


「どうしたんですか? ヘレナさんを出してください。お願いします」


 電話の向こうから聞えるのは、ドロシーのすすり泣くような声。

 スマホを持つ手が震えているのがわかった。

 冬夜はが事実であることを確信した。


「……状況はわかりました。先程NIHのスタッフと話をしたとき、ヘレナさんのことを知りました。とても信じられなかったので、こうして電話をさせてもらいました。ヘレナさんからボクにメッセージがあれば、教えてもらえませんか?」


「わかった」


 ドロシーは蚊の鳴くような声でポツリと言った。普段の強気な彼女とは別人だった。彼女の中でヘレナの存在がどれほど大きいものだったのかが伝わって来た。


 ドロシーは話し始めた。

 ヘレナから発せられた言葉をそのままに。ヘレナの意思が冬夜の心に届くように。


 いつしかドロシーの言葉は嗚咽交じりのものへと変わる。息を吸ったり吐いたりを繰り返して自分を落ち着かせようとしている。


「最後にヘレナは言った。『忘れなければ、また会える』と……そう思っていいのね?」


 喉の奥から絞り出すような声が聞えた。傷心のドロシーが希望を見出そうとしているのがわかった。


「はい。時間はかかりますが、ボクがヘレナさんをバランサーとして蘇生します。そして、必ずドロシーさんの前に連れてきます」


 冬夜は淡々と答えた。それは、ドロシーに対する答えであると同時に決意表明のようなものでもあった。


「待ってるから。いつまでも」


 電話を切った後もドロシーの最後の言葉が耳に残っていた。

 冬夜はカバンから写真ケースを取り出す。そこには、白衣姿のウィノナが写った、色褪せた写真が入っていた。


「まさかPTの被験者になるなんて……ヘレナさんには春日に会って欲しかった。もっと話がしたかった」


 冬夜はヘレナに話し掛けるように、残念そうに呟いた。


★★★


「兄貴、どうかしたのか?」


 ぼんやりと天井を眺める冬夜に、春日が顔を向けて心配そうに言った。


「ごめん。起こしちゃったね。何でもないよ」


「そうは見えないな。兄貴は物静かで、それが普通なのかもしれない。でも、何だか寂しそうだ。あたしは頭が悪いから上手く言えないけど、飛行機に乗る前と今とでは雰囲気が違う気がする。

 それから、あたしのことは心配しなくていい。死ぬほど寝たから、目が冴えちまった」


 ベッドから起き上がった春日は、窓のシェードを半分開けて外に目をやる。


「真っ暗で何も見えない。今どのあたりを飛んでる? アメリカにはあとどれくらいで着く?」


 春日は、枕元に置かれた、赤い花があしらわれたバレッタで前髪を留めながら、興味津々といった顔で冬夜の方に目を向ける。


「飛行機は太平洋の上を飛んでいる。国が無いところだから夜が明けるまでは真っ暗だ。もうすぐ一時半だから、フライトはあと八時間ちょっとかな」


「マジ? こんな退屈な景色を見ながら八時間も過ごすのかよ? 絶対耐えられない。兄貴、何とかしてくれ」


 春日は唇を尖らせて、露骨に不満そうな顔をする。

 前日、冬夜といろいろな話をしたことで、かなり打ち解けているのがわかる。


「じゃあ、何か食べる? それとも映画でも見る? ファースト・クラスだからホテル並みの食事や設備が揃ってる。好きな物を言ってくれたら、ボクが客室乗務員キャビン・クルーに交渉する。それとも、春日が自分で話した方がいい?」


「あたしが英語で? あり得ないっつーの! 天才の兄貴とは違うんだから、できるわけないだろ? それに、可愛い妹のために一肌脱ぐのは、昔から兄貴の役目だって相場が決まってる。ここは、花を持たせてやるよ」


 春日はで見下すように話す。そんな彼女の様子に、冬夜は幸せな気持ちになる。


「ありがとう。春日のために何かできるなんてボクは幸せ者だよ」


「な、なに言ってるんだよ!? そこは『どこ? どこに可愛い妹がいるの?』とか『冗談は顔だけにしろよ!』とかツッコミを入れるところだろ? 恥ずかしいこと言わないでくれよ。兄貴は頭がいいくせに、常識がないんだよ」


「ごめん。ごめん。もう少し勉強するよ」


「また真面目な顔で言ってるし……」


 春日は小さく溜息をつく。


「じゃあ、お言葉に甘えて一肌脱いでもらうとしよう。兄貴の英語で飲み物と食べ物を調達して来てくれ。朝まで話せるように」


「八時間って……ロスに着いたらPTの準備で大変だよ。それに、春日は重病人なんだから、安静にしていないと――」


「そのために優秀な医者が付いてるんだろ?」


 春日は自分の右手をピストルに見立てて冬夜の方へ向けると、片目を閉じて「バーン」と小声で呟く。


「それに、もう会えないんだろ? 兄貴のには……。話してくれよ。どんな人だったのか。兄貴と二人であたしの命を救おうとしてくれたヘレナさんって人のこと」


「春日、聞いてたのか?」


「人聞きの悪いこと言うなよ。んだ。英語はわからなかったけど、で話されたらイヤでも気になる。

 アメリカに着いたら、こんな風に二人で話せないだろ? だから、いろいろ話しておきたいんだ。この十五年間、あたしもいろんなことがあった。八時間じゃ足りないけど、できるだけ話してやるよ」


 春日は、ヘレナのことを自分の恩人だと言った。そして、自分のことを冬夜に話したいと言った。冬夜に心を開いてくれた。

 冬夜はうれしい気持ちでいっぱいだった


「ボクが春日のことを訊いてもいいの?」


 想定外の質問だったのか、春日は胸の前で腕を組んで何かを考える仕草を見せる。


「……特別大サービスってことで、受けてやらないこともないな」


「じゃあ、温人くんのこと、詳しく教えてくれる?」


「は、温人ぉ……!? あいつは兄貴と違ってどこにでもいる『生徒A』だ。話すことなんか何もない。目が二つに鼻が一つに口が一つ。手足がそれぞれ二本。以上だ」


 温人の名前が出た瞬間、春日は目を逸らして必死に話を終わらせようとする。


「そんなわけだから、兄貴はあたしのために必要なものを調達してくること!」


「仰せのままに。お姫様」


「うむ。苦しゅうない。良きに計らえ」


 冗談めいたやり取りに、春日は「ぷっ」と噴き出して声を上げて笑う。

 すると、それに釣られるように冬夜の顔にも笑みが浮かんだ。


「兄貴……笑えるじゃないかよ! その方がいい! 絶対いい! 絶対もてるって!」


 初めて見る冬夜の笑顔に、春日は驚きと喜びがいっしょになったような表情かおをする。

 冬夜も自分が笑ったことに戸惑いを隠せなかった。

 最後に笑ったのは、確か春日の病状を父親から聞いた、小学五年生のとき。意識的に笑わなかったわけではないが、笑うのが申し訳ない気がした――春日に対して。


「ラウンジに行ってくるよ」


 冬夜は春日に背を向けて、コンパートメントのドアに手を伸ばす。


「そうだ! 忘れないうちに質問!」


 背中から春日の声が聞こえた。


「さっき、『ヘレナさんとは会えない』って言ったけど、よく考えたら、あれって間違いだよな?」


 その瞬間、冬夜の動きが止まる。目を伏せて何度も頷くと、ゆっくりと振り返った。


 春日が黒目がちな瞳を揺らして優しく微笑んでいる。

 冬夜は少年のように無邪気な笑みを浮かべる。そして、はっきりとした口調で言った。


「当たり前だよ。だって、ヘレナさんは生きてるんだから。五年後、春日は彼女に会える。ボクが保証する」



 つづく 

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