第48話 2人の距離(その2)


「いきなり現れて兄貴面するんじゃない! お前なんか兄貴じゃない! あたしの前から消えろ! さっさとアメリカに帰れ!」


 春日は身体を震わせながら興奮気味に叫んだ。

 怒りをたたえた、鋭い眼差しが冬夜を睨みつける。


「春日、冬夜くんの話を聞いて! 冬夜くんはあなたのことを心配して――」


「うるさい! 話なんか聞きたくない! お前ら全員出ていけ!」


 春日は、助け船を出そうとした秋穂の言葉を一蹴すると、頭から布団をかぶる。まさに、取りつく島がない状況だった。


 冬夜はいつものポーカーフェイスで、黙って春日の様子を眺めていた。

 不意に、温人は胸が締め付けられるような息苦しさに襲われた。冬夜の方へ向けた顔に激しい狼狽ろうばいの色が浮かぶ――冬夜の心の声SOSが聞こえたから。


 以前、春日が発した心の声SOSは衝撃的だった。それは、彼女が心に溜め込んだ、恐怖と不安が凝縮したもの。それまで聞いた、どんな声よりも苦しそうで、どんな叫びよりも悲しい響きだった。

 今、冬夜が発している心の声SOSはあのときの春日のものとは違う。ただ、深い悲しみに満ち溢れた焦燥感のようなものが伝わってくる――表情とは裏腹に、冬夜の心は泣いていた。


「春日さん、冬夜さんの話を聞いてあげて! 冬夜さんは心から春日さんのことを心配している! 聞こえたんだ! 冬夜さんの声が!」


 温人の言葉に春日は激しい動揺を覚えた。温人に他人の心の声SOSを感じ取る能力ちからがあることを知っているから。そして、温人が嘘を言っているとはとても思えなかったから。

 しかし、春日は何かを振り払うように頭を左右に振った。


「兄貴があたしのことを心配するわけがない! 温人、お前は兄貴に丸め込まれてるだけだ! これ以上、何か言ってみろ! そのときは……お前とは絶交だからな!」


「春日さん、違うよ! 冬夜さんは本当に君のことを――」


 必死に反論する温人の肩に秋穂がポンと手を置く。

 振り返った、温人の顔は今にも泣き出しそうで悔しさが滲み出ていた。


 秋穂は首を横に振ると、病室のドアの方を指差して温人と冬夜に廊下に出るよう合図をする。今の春日には、二人が何を話しても火に油を注ぐようなものだと思ったから。


 冬夜と温人は無言で病室を後にする。室内に静寂が訪れる。


★★


「春日、ちょっといい?」


 いつもの口調で秋穂が話し掛ける。

 しかし、春日からは何の言葉も返って来ない。頭から布団を被ったままだんまりを決め込んでいる。突然、冬夜が目の前に現れたことで様々な感情が入り乱れパニックに陥っていた。


「冬夜くんが家を出たのは十年前。春日がまだ幼稚園だった頃。年も取るはずね」


 秋穂は独り言のように呟きながらベッドの脇の丸椅子に腰を下ろす。


「冬夜くんは、いつも自分の部屋に閉じこもっていた。春日と話をすることもほとんどなかった」


 秋穂は視線を窓の外へ向けて、赤味がかった、西の空を見つめた。


「春日は冬夜くんが笑った顔なんか見たことないよね?」


「……あるわけない。兄貴は天才で超の付く優等生だ。将来スゴイ医者になるのが夢だ。そのためにいつも必死に勉強してた。あたしみたいなバカにかまってる暇なんかなかった」


 黙っていた春日の口からどこか寂しそうな言葉が漏れる。


「本当にそう思ってるの?」


「思ってる。ただ、兄貴が何をしようがあたしの知ったことじゃない。もともと兄貴はあたしの本当の兄貴じゃない。あたしにとって兄貴は……だからな」


 会話が途切れて病室は再び静寂に包まれる。廊下から人の足音や話し声が聞える。


 そのとき、春日は戸惑いを覚えていた。

 これまで冬夜は自分のことなど全く眼中にないと思っていた。そんな冬夜のことを他人だと思うようにした。そうすることで、悲しみを感じなくて済むと思ったから。

 しかし、「赤の他人」という言葉を口にした瞬間、春日の心は深い悲しみに包まれた。「本当にそれでいいの?」。どこからかそんな声が聞こえた気がした。

 春日の中で、得体の知れない感情がくすぶっていた。


★★★


 不意に鼻をすするような音が聞こえた。春日は耳をそばだてる。すると、今度は嗚咽おえつのような声がした。

 春日が布団から顔を出すと、そこには、口元を押さえてポロポロと涙を流す秋穂の姿があった。


「お袋……?」


 春日は驚いた表情かおをして身体を起こす。


「どうしたんだよ? 何か気に障るようなこと言ったか?」


 ハンカチで涙を拭いながら、秋穂は潤んだ瞳で真っ直ぐに春日を見つめる。


「……冬夜くんからは……口止めされてた。『絶対に春日には言わないでくれ』って言われた。でも、今言わなければ後悔する。これまで冬夜くんがやってきたことがすべて無駄になる」


 春日は秋穂の言っていることが理解できなかった。ただ、その訴えかけるような眼差しから、何か大切なことを言おうとしているのは理解できた。


「お袋、話してくれ。あたしが生まれてからこれまで、兄貴が何をしてきたのか」


 春日の真剣な眼差しに、秋穂は言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。


★★★★


「――――冬夜くんは、ずっと春日の病気を治すことだけを考えてきた。そして、そのことは絶対に春日に言わないよう、私たちに釘を刺した。春日のことを誰よりも心配してくれていたのは、冬夜くんなんだよ」


 秋穂はこれまでの一部始終を春日に話して聞かせた。


「嘘だろ……? 兄貴があたしのために自分を犠牲にしてきただなんて……嘘に決まってる! あたしを騙そうとしてるんだ! そうだろ? そうなんだろ!?」


 春日は唇を震わせながら両手で秋穂の上着の袖を掴む。

 秋穂はゆっくりと首を横に振った。


「信じるかどうかは春日の自由。でも、私は本当のことしか言わない」


 秋穂の目を見れば、それが嘘でないことはすぐにわかった。だからこそ辛かった。

 これまで春日は心のどこかでやり場のない怒りを抱いてきた。そして、無意識のうちにその矛先を冬夜へ向けてきた。「自己中」で「赤の他人」の冬夜をけ口にしてきた。

 しかし、冬夜はいつも春日のことを気に掛けていた。春日を助けるためにいつも全力を尽くしていた。


 春日は目を伏せると、震える身体を両手で抱きしめた。冬夜に申し訳が立たなかった。どうしたらいいかわからなかった。

 春日の左頬に温かい何かが触れた。それは秋穂が差し出した右手。


「春日がそんな風に自分を責めると思って、冬夜くんは何も言わなかったんだよ。でも、気にすることない。だって、お父さんが春日の病気のことを話したとき、冬夜くんは笑顔で言ってくれたんだから」


 春日はゆっくり顔を上げた。

 秋穂が優しい眼差しで見つめている。


「十五年前、冬夜くんは言った。『ボクの手で春日を助けたいんだ。だってボクは――春日のお兄ちゃんだから』って」


 せきを切ったように涙が溢れ出した。春日は声を上げて泣いた。顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。そんな春日の身体を秋穂はしっかりと抱き締めた。


「大丈夫。絶対に大丈夫。お兄ちゃんが何とかしてくれる。お兄ちゃんを信じよう」


 秋穂は春日の耳元で優しく語りかけた。

 とびきりの笑顔を浮かべて。ポロポロと涙を流しながら。



 つづく(第5部へ)

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