第51話 春日の存在


 二〇二二年三月末、高校を卒業した温人は独り、川沿いの土手の道を歩いていた。

 いつも春日と肩を並べて歩いた道。川に沿って植えられた、桜の木々はあでやかな、薄紅色の彩りを見せる。川景色が春の訪れを告げていた。


「もう四年半になるんだね。春日さんと出会って」


 温人は春日に話し掛けるようにポツリと呟く。

 普段何気なく見ていた景色がどこか趣のあるものに映った。「そこにあって当たり前」と感じるものは、なかなかその価値を実感することができない。しかし、違ったシチュエーションで見たり、失ったりすることで、それまで見えなかった側面が浮き彫りになる。


 四季を通じて違った表情かおを見せる川景色。

 春日といっしょに桜を見たことも何度かある。ただ、温人の脳裏に浮かんだのは、水面みなもに無数の雪の華が咲いていた、冬の景色――春日と過ごした、クリスマスイブの日のそれ。

 真っ白な雪が舞い落ちる中、温人がプレゼントした髪留めバレッタを付けてうれしそうに微笑む春日。冬の妖精を思わせるワンショットは、温人の心のアルバムに大切に収められている。


「春日さんのおかげで、高校も無事卒業できたし就職先も決まったよ。関東ここからは少し遠くなるけど、何かあればすぐに帰って来るから」


 この春から温人が勤めるのは中部地方の電力供給を生業なりわいとする「中京エレクトリック株式会社」。実家のある愛知県に本社がある、親方日の丸の大企業。その知名度と安定性から就職人気ランキングの上位に顔を出している。

 温人の高校から採用されたのはコネ入社以外では初めて。しかも温人より優秀な生徒が何人か受けたにもかかわらず、受かったのは温人一人。進路指導の教師や友達はもちろん、本人さえも驚きを隠せなかった。


「一月六日には、何があっても戻って来るよ。『春日さんの日』だからね」


 温人は、春日の母・秋穂と話をして、春日がPT措置を受けた一月六日に「春日を囲む会」を開くことにしてもらった。みんなが集まって春日との思い出を語ることで、大切なものを忘れないようにするためだ。

 すでに二回開催され、温人、春日の両親、冬夜、柿崎といった、気の置けないメンバーが集まり、会は盛り上がりを見せた。まるでその場に春日がいるような感覚があり、心から楽しい時間を過ごすことができた。


「冬夜さんが『二、三年後には春日さんも参加できる』って言ってたよ。そのときのことを考えると胸がワクワクする」


 二年前、温人の前から春日は姿を消した。しかし、彼の中にはいつも春日がいた。輝いている姿や優しい笑顔は一度たりとも忘れたことなどない。


「僕がすべきことは、春日さんを忘れないこと。そして、春日さんがいなくても一人でがんばること」


 温人はいつも自分にそう言い聞かせた。


 心地良い風を全身で感じながら、温人は川沿いの道をゆっくりと歩いていく。隣りで微笑む春日といっしょに。


★★


 中京エレクトリック社に入社した温人は、名古屋市内で一年の研修を終えた後、長野県O市にある営業所へ配属となる。

 富山県と岐阜県の県境に位置するO市は、県の中心から百キロ以上離れた山間部に位置し、交通のアクセスが不便で名古屋圏・関東圏へ行くにもかなりの時間を要する。

 人口密度は低いものの広範な地域を担当しているため、車を使った出張で一日が終わり、夕方から事務作業を行うのが日課だった。


 温人は仕事ができるタイプではなかった。しかし、持ち前の明るさと人の良さでスタッフの協力を得て日々の仕事を上手くこなしていた。

 春日の家へ行くには七時間以上かかるため、移動だけで一日が潰れてしまう。ただ、一月六日はもちろん、年に二、三回は春日の家に顔を出すようにしていた。また、秋穂と冬夜とは不定期ながらメールで連絡を取るようにしていた。そうすることで、春日を身近に感じ、仕事を行ううえでの活力につなげていた。


 社会人としての温人は、順風満帆だった――が、入社から二年が経った頃、職場の長である営業所長が異動となったことで、にわかに暗雲が立ち込める。

 新営業所長の「白井しらい 義男よしお」は定年を間近に控えた、冴えない中年。仕事はできないくせに気位ばかりが高く、そのときの気分で人を罵倒ばとうしたり嫌味を言ったりする。

 部下を見下すような目つきと喧嘩腰けんかごしの口調はいつものことで、赴任して一ヶ月も経たないうちに、その人間性を誰もが理解した。


 白井のモットーは「和気あいあい」。何とかの一つ憶えのようにその言葉を連発する。わかりやすく言えば「飲みに行くから全員俺について来い」。

 名古屋に家族を置いて単身赴任している白井は、時間を持て余している感があり、スタッフを引き連れて飲みに行くのが日課だった。まるでボス猿が山のてっぺんに登るがごとく、片田舎の営業所でお山の大将を満喫していた。


 白井は飲んだ席で、自分がこれまでどんなことをして来たかを得意気に話した。退職間際に、片田舎の営業所に配属された時点でその評価は推して知るべしで、馬鹿丸出しの自慢話に他ならない。嫌気が差しているのは温人だけではなかった。


 しかし、誰もそのことを口にはしなかった。なぜなら、民間企業でいう「営業」の概念がない中京エレクトリック社では、上司の一声で評価が決まってしまうから。

 白井が「黒」を「白」だと言ったとき、「白」だと言ったスタッフは高く評価され「黒」だと言ったスタッフは冷や飯を食くことになる。

  

 これまで、白井の部下で精神疾患を理由に退職したスタッフが何人かいた。

 ただ、上部機関には「原因は本人のメンタルの問題」と報告され、白井が責任を追及されることはなかった。まさに、悪しき企業体質と彼が作り上げた人脈のなせるわざだった。

 

 さらに悪いことに、白井は守銭奴を絵に描いたような男だった。

 飲み会は一次会で終わることはなく、家へ帰れるのは決まって日付が変わる頃。酒を好んで飲まない温人にも後日同じだけの請求が来る。酒好きの白井が「ワリカン要員」を増やして自分の負担を少なくしているのが見え見えだった。


 そんな状況に置かれながら温人は笑顔を絶やさなかった。

 春日のことを思い出して自分を鼓舞した。春日に会える日のことを考え、辛いことをエネルギーに変えてがんばろうと思った。



 つづく

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