第9話 言葉の力


 国立医学アカデミーの上級研究員シニア・フェローになったウィノナには、地位も名誉も財産もあった。 

 しかし、満足感を覚えたことなど一度もなかった。なぜなら、それらはすべて、大切なものと引き換えに与えられたものだったから。


 曲がりなりにもウィノナは医学の道を志した者。にもかかわらず、やっていることは人殺しの片棒担ぎ。いや、自分の手で人をモルモットのように殺傷していることを考えれば「人殺しそのもの」と言ってもいい。


『私は、殺人を犯して服役している囚人とどこが違うのだろう?』


 ウィノナはよく自問自答した。


 二十四時間監視され自由のない生活を送っているという点では、両者は何も変わらない。ただ、人を殺した理由に着目すると、ウィノナは囚人よりたちが悪い。

 囚人が、自らの欲望を満たすため、目的をもって殺人を犯したのに対し、ウィノナは目的をもって人の命を奪っているわけではない。いたずらに人をあやめている。たとえ囚人の目的がよこしまなものであったとしても、目的があるだけ増しなのではないか? 


 党に強要されて「無理やりやらされている」と言えば聞こえはいいが、それが免罪符になるわけではない。

 ウィノナの手によって死に至った人の数は数百人に及ぶ。であれば、いくら強要されたとしても、できることとできないことがあるのではないか? 良心の呵責かしゃくに耐えかねて、自ら死を選ぶのではないか? 


 医学者もウィノナも実験を通してたくさんの命を奪っている。それは「功罪」という言葉に置き換えることができる。

 しかし、医学者が、将来多くの者をにやむなく命を犠牲にしているのに対し、ウィノナは、将来多くの者をに命を奪っている。

 近い将来、ウィノナの研究がしかばねの山を築くのは容易に想像ができ、その行為は誰が考えても道理に反している。


『自ら死を選ぶべきではないか?』


 いつも最後はそんな問い掛けに至る。

 しかし、ウィノナはそれを否定した。「ある思い」があったから。


『私が生き続けることで、さらに多くの人の命を奪うことになるかもしれない。ただ、自分が死んでもこれまで死んだ人が生き返ることはない。もし今の状況から抜け出すことができれば――自由を得ることができれば、私はこれまで命を奪った人の何倍もの人を救いたい。一生を掛けて償いたい』


 誰かに話したら「助かりたい一心で虫の良いことを言っている」などと非難されるかもしれない。「現実逃避の自慰行為マスターベーション」などと嘲笑されるかもしれない。

 しかし、ウィノナは、可能性がある限り、死を選ぶことを由としなかった。


★★


 いつからか、ウィノナは党に対してを試みていた。

 新たな殺傷兵器である「超人」を生み出すための分析はほぼ完了し、ウィノナの頭の中では具体的なアプローチが形になっていた。

 しかし、それを党には報告しなかった。その一線を超えることで、となって処分される危惧があったのはもちろん、それ以上に、自分が人に戻れない気がしたから。

 同じ部署にはウィノナ以外に七人の研究者がいたが、肝心な部分はウィノナしか把握しておらず、誰も研究の成果がほぼ形になっていることに気付いていなかった。

 ただ、党の上層部から研究内容について詳しく訊かれることが多くなった。そのたびに、ウィノナは内心びくびくしながらをした。


『反旗をひるがえしたことが薄々感ずかれているのかもしれない。そうだとしたら、私は洗脳され消滅してしまう。罪悪感など感じることのない人形として一生を過ごすことになる』


 ウィノナの頭の中を、死よりも恐ろしい妄想が駆け巡る。

 それまで何とか誤魔化してきたが、限界が近づいているのは明らかだった。


 そんな中、ウィノナは「ある情報」を得る。そして、人を殺すことでも、自らを死に追いやることでもない「第三の選択」を模索する。

 は実現可能性が極めて低く、選択肢になり得るかどうかさえ疑わしいもの。ただ、命をなげうつのであれば、を試してからでも遅くはないと思った。


 古い学術誌に目を通していたウィノナは、共同研究を行っていたメンバーの一人「エドガー・グランフェルト」が若い頃に執筆したエッセイを見つける。そこには、彼の生い立ちについて触れた記述があった。

 ウィノナが得た情報――それは、エドガーがユダヤ系スウェーデン人であることだった。


 ウィノナは、両親がユダヤ系だったことで小さい頃からヘブライ語の読み書きを教わった。日常会話なら普通に話すことができる。

 スウェーデンには二万人近いユダヤ教徒が住んでいるが、ソ連と違い、ユダヤ人であることで差別的な扱いを受けたり、ヘブライ語を使うことで非合法な調査や裁きを受けたりすることはない。

 そう考えれば、エドガーが両親からヘブライ語を教わっていても何らおかしくはない。

 

 一九八四年九月末、共同研究のためスウェーデンの研究機関を訪れたウィノナは、一縷いちるの望みを胸にに出る。


★★★


「――先月、この近くにスウェーデンの家庭料理を食べさせるレストランがオープンしたんですよ。早速、家内と出掛けたのですが、これがなかなかでした。よろしければ、これから行ってみませんか?」


 午前の打ち合わせが終わったとき、エドガーがウィノナを食事へ誘う。

 ウィノナが黒服の二人に確認を取ったところ、彼らが同行すれば外食も問題はないとのこと。

 こうして、研究メンバーの三人と黒服の二人はエドガーが薦めるレストランへ出掛けることとなる。


 時間が早いせいか、客は数えるほどしかいなかった。

 ウィノナたちは隣り同士二つのテーブルに分かれて座る。店内はとても静かで落ち着いた雰囲気があり、メンバー三人の会話は隣りの黒服には筒抜けだった。


 十分が経った頃、テーブルに料理が運ばれてくる。

 ウィノナが注文したのは、エドガー一押しの「スウェーデン風肉団子ショット・ブラール」。オレンジ色のソースが掛った肉団子にマッシュポテトとトマトが添えられている。

 エドガーの説明によれば、ショット・ブラールはスパイシーな肉団子に酸っぱい苔桃こけももジャムをつけた、スウェーデンを代表する家庭料理。ピリ辛と酸味がマッチした、不思議な味わいで一度食べたら病みつきになるらしい。


 それぞれ注文した料理を食べ始めた三人だったが、エドガーはウィノナの様子がおかしいことに気付く。

 いつもなら料理を食べながら英語で忌憚きたんのない感想を述べるウィノナが、何も言わずに黙々と食べている。ポーカーフェイスはいつものこと。しかし、どう見ても美味しそうには見えない。


「エレンブルグ博士、お口に合いませんか? もしそうなら、無理はなさらないでください。違うものをオーダーします。遠慮なくおっしゃってください」


 エドガーはナイフとフォークを持つ手を止めて、ウィノナに申し訳なさそうな顔をする。


「תודה(ありがとう) מאוד טעים(とても美味しいです)」


 何の前触れもなくウィノナの口からが飛び出す。改まった様子はなく、食事をしながら自然に話している。

 一瞬驚いた顔をしたエドガ―だったが、すぐに笑顔がそれにとって代る。

 

「זה היה טוב(良かった) אמון היה(安心しました)」


 同じで返すと、エドガ―は続ける。


「でも、驚きました。エレンブルグ博士がヘブライ語を話されるなんて。しかもとても流暢りゅうちょうだ。博士もユダヤ系なのですか?」


 その瞬間、ウィノナは心臓が早鐘を打つように激しく鳴るのを感じた。「一生に一度あるかないかのチャンス」。そんな言葉が脳裏を過る。同時に「気持ちを表に出してはいけない」と自分に言い聞かせる。隣のテーブルでは黒服の二人がしっかりと聞き耳を立てている。


 ウィノナは、半分に切ったショット・ブラールを頬張ほおばりながら「美味しい」と言わんばかりに何度も首を縦に振る。そして、続ける。


「ヘブライ語はこれで終わりにします。私は常に見張られています。もし話の内容が二人にばれたら、私は殺されるかもしれません。

 そのまま笑いながら聞いてください。西側へ亡命させて欲しいのです。私は殺傷兵器の研究を強要されています。これまで数えきれないぐらいたくさんの人をあやめてきました。だから、これからはたくさんの人を救いたいのです」


 とてつもなく重要な会話をしているにもかかわらず、ウィノナの表情も口調も普段と全く変わらないものだった。


「――たまには、英語以外の言葉で感想を述べるのもよろしいでしょ? 今回のお料理もとても美味しい。スウェーデンの料理は私と相性がいいみたいです」


 そう言うと、ウィノナはご機嫌な様子で再び首を縦に振る。

 エドガーも冷静だった。いや、努めて冷静に振舞っていた。

 自分が置かれている立場の重要性をしっかりと認識していた。


「確かに。同じ『美味しい』でも伝わり方が違いました。最上級の賛辞をいただいた気分です。では、エレンブルグ博士がをしましょう。

 スウェーデンには、他にも美味しいものがたくさんあります。次回の打ち合わせのときには、また違ったものをご用意します。がんばります。スウェーデン人の誇りに掛けて」


 エドガーは、おどけた様子でリンゴとオレンジの風味が漂うソフトドリンク「トロカデロ」のビンを手に取る。そして、ゴクゴクと音を立てて一気に飲み乾した。


「よろしくお願いします」


 ウィノナはエドガーに軽く会釈をすると、コップに注がれたトロカデロを少し口に含んだ。



 つづく

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