第8話 心の葛藤



 ウィノナの両親は彼女が十歳のときに亡くなった。

 死因は交通事故。自宅で製作した家具を配送するため、小型トラックで山沿いの道を走っていたとき、運転操作を誤って谷底へ転落した。


 担当教官から両親の死を知らされたウィノナはすぐに自宅へ向かった。

 自宅があるのは、ウクライナの最南端クリミア半島のリゾート地ヤルタの郊外。南は黒海、北はクリミア山脈に挟まれた、静かな町で、モスクワから千キロ以上離れていた。


 教官に付き添われ飛行機とバスを乗り継いで到着した、五年ぶりの我家だったが、ウィノナには感慨に浸る余裕などなかった。

 両親の亡骸なきがらに対面した瞬間、ウィノナは目を見開いて言葉を失った。二人の顔を見ても、それが誰なのかわからなかったから。


「谷底に転落したとき、ガソリンに引火して車両が燃えたんだ」


 ウィノナの耳元で教官が小声で言った。

 その場に呆然ぼうぜんと立ち尽くし、ウィノナは言葉にならない言葉を発しながら嗚咽おえつを漏らす。

 見るに見かねた、近所の女性が、ウィノナの顔を自分の胸に押し当てるように抱きしめる。両親の亡骸なきがらを見えないようにするために。

 しかし、ウィノナは女性の手を振り払うと、視線を真っ直ぐに両親の亡骸へと向けた。大粒の涙をポロポロ流しながら、決して目を逸らさなかった。

 なぜなら、そのときのウィノナの中には、悲しみに暮れる彼女とは――両親が事故死であることに納得がいかず、強い疑念を抱く彼女がいたから。


 両親が事故に遭ったのは、自宅から二時間ほど走ったところにある、山沿いの道。三人でピクニックに出掛けた場所よりずっと山奥で、今まで行ったことがない場所。そんな人が棲んでいるかどうかもわからないような場所から突然家具の注文が舞い込んだ。

 もともと両親が営んでいたのは、雇用人もいない、小さな家具店。地元から注文を受けて二人で一つの家具を製作していた。労働力に限りがあることから、広告を出すようなこともしていない。地元以外から注文が入ることなどなく、なぜそんな場所から注文があったのかも理解できなかった。

 配送を運送屋に依頼するといった選択肢もあったが、注文を受けた家具が何とか自家用のトラックでも運べるサイズだったことから、両親は旅行を兼ねて家具を届けることにした。


 そんな中、一際険しい、九十九折つづらおりの道でトラックは谷底へ転落して炎上する。

 あたりに民家はなく、普段人がほとんど通らないような場所での転落事故――にもかかわらず、数時間後には両親の死がウィノナに伝えられ、遺体も軍のヘリにより自宅に搬送された。

 身元の特定と遺体の搬送があまりにもスムーズだった。


 ウィノナの両親はユダヤ系の民主主義者。自由の大切さや命の尊さについて彼女に繰り返し話して聞かせた。また、彼女が党の施設に預けられることを最後まで反対し必至に抵抗した。

 ウィノナが連れて行かれた後も両親は何度も面会を求めたが、ほとんど叶うことはなかった。一度だけ許されたのは、監獄の面会室のような、監視カメラの付いた部屋。しかも時間は十五分間だった。


★★


 両親の葬儀が行われた次の日から、何もなかったかのようにウィノナの個人レッスンが再開される。

 学習時間が長くなり難易度も上がったような気がした。レッスンが終わると心身ともにクタクタで、何も考えることなくすぐに眠った。まるで余計なことを考えさせないよう、意図的に仕向けているようだった。


 両親の死を契機にウィノナに変化が起きる。

 他人のことを一切信じなくなり、感情を表に出すこともなくなった。そして、自分の大切なもの――両親と自由を奪った党に対して激しい怒りと憎しみを抱くようになった。

 

 ただ、ウィノナは冷静だった。自分が置かれている状況を理解していた。

 自分は党にとって利用価値があり「殺されることはない」と確信していた。同時に、党の力がどれほど強大で、逆らえばどうなるかもわかっていた。

 党にとっては、ウィノナはではなく。物は反旗をひるがえしたり危険な思想を抱いたりすることはない。仮にそんな言動が表に出れば、即座に物に徹するための処理――「強制洗脳」が行われる。


 それまで長い時間をかけて思想教育を受けたが、それはあくまで緩やかな洗脳。両親からの教えがなければウィノナもすぐに染まっていただろう。をして周りをあざむけているのは、両親の教えがあったからに他ならない。

 以前、予備軍にいた、男子の一人が強制洗脳されたのを見たことがある。

 別の部屋へ連れて行かれ三日後に戻ってきたときには、生きるしかばねと化していた。

 引き取りに来た両親にどんな説明がされたのかはわからないが、大切な我が子を泣きながら連れて帰る両親の姿が頭から離れなかった。


 ウィノナは思った。「もしあの薬を使われたら、自分は自分でなくなる。人の心を失くした人形と化す。死ぬまで何の罪悪感も抱くことなく殺戮さつりくの片棒を担がされる」と。


 そんな恐怖にも似た危機感を胸に刻みながら、ウィノナは党に対する、従順なしもべであるかのように振る舞った。心の中で激しい葛藤に苦しみながら。



 つづく

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