第10話 緊急事態


 キャリーバッグを片手に、人気のない、国際線のターミナルを歩くウィノナ。突然足を止めて、崩れるようにその場にしゃがみこんだ。


「博士……?」


 タチアナが心配そうに声を掛ける。ウィノナは取り出したハンカチで口元を覆って、もう片方の手で下腹を押さえる。

 

「吐き気がする……お腹が痛い……トイレへ……行かせて……」


 顔をしかめて荒々しい呼吸いきをしながら、途切れ途切れの言葉を吐き出すウィノナ。顔から噴き出した冷や汗があごを伝ってポタポタと床にしたたり落ちる。

 その様子は尋常ではなかった。


 空港の医務室に医師はいないが、大使館には専属の医師がいる。

 しかし、車を飛ばしても三十分以上は掛かる。もし移動中に車内で粗相そそうをするようなことがあれば、ウィノナは心に大きな傷を負う。「そんなことはあってはならない」。タチアナは同じ女性として思った。


 飛行機酔いや食当たりのたぐいであれば、トイレへ行くことで症状の緩和が期待できる。そのことは、医学者であるウィノナの方がわかっているはず。大使館への到着時間は決められていない。トイレへ寄ってから行ったとしても何ら問題はない。

 タチアナはルドルフと話をして、ウィノナをトイレへ連れて行くことにした。


★★


 時刻は午前四時を少し回ったところ。ストックホルム・アーランダ空港の離着陸が一日を通して最も少ない時間帯。

 利用客がまばらであるため、四つあるターミナルのうち二つが閉鎖され、フードコート、売店、トイレといった空港施設のいくつかは使用できない状態にある。


 ルドルフは大きな身体を揺すって空港内を走りながら、使用可能なトイレを確認する。


「タチアナ、こっちだ! エレンブルグ博士をお連れしろ!」


 タチアナに向かって手招きをするルドルフ。静まり返った港内にルドルフの声が響き渡る。タチアナはウィノナの肩を抱きかかえてトイレの方へと歩き出す。


「ルドルフ、博士の荷物をお願い!」


 タチアナの呼び掛けに、キャリーバッグのところへ走り寄るルドルフ。片手でそれを軽々と持ち上げて二人の後を追う。

 ただし、ルドルフがいっしょに行けるのは、女子トイレの入り口まで。いくら人がまばらだと言っても中に入るわけにはいかない。こういうときのために、ウィノナには男女一人ずつの監視役が付けられている。


 ウィノナを連れて女子トイレへ入ったタチアナは、あたりをぐるっと見回す。

 中はウナギの寝床のような造りで、入口を入ってすぐのところに五つの洗面台と鏡があり、通路を挟んでそれぞれ十室――合計二十の個室が並ぶ。

 使えるトイレが限られているせいか、ほとんどは使用中で、奥の何室かは扉が開いている。


「博士、少しお待ちください」


 タチアナはタオル地のハンカチを床に広げてウィノナを座らせる。そして、個室の様子の確認へ向かう。

 間髪を容れず、タチアナの顔に不快な表情が浮かぶ。強烈な悪臭が鼻を突いたから。アンモニア臭がきつい、汚れた公衆トイレと同じような臭い。いや、それ以上だった。

 臭いを嗅いだだけで、清掃が全く行き届いていないのがわかる。奥に進むにつれ臭いは酷くなり、空気がよどんでいるような錯覚に陥る。


 何とか扉が開いている個室に辿り着いたタチアナだったが、中を覗いた瞬間、目を見開いてスーツの袖で口元を強く押さえつけた。

 見るに堪えない光景だった。

 便器だけでなく周辺の床にも汚物が派手に飛び散り、冬だと言うのに大きなはえがブンブンと音を立てて跳び回っている。

 しかも、汚物に交じって散らばっているのは、使用済みの生理用品。便座に座るのはもちろん、個室に足を踏み入れるのもはばかられる状況だった。


 普段は感情を表に出すことなく任務に徹するタチアナだったが、生理的に受け付けられない光景に嫌悪をあらわにする。

 この時間のフライトがほとんどないことで、清掃の頻度が抑えられていることは理解できる。ただ、とても先進国の国際空港とは思えなかった。

 これだけ派手に汚れているところを見ると、いわゆる「常識がない国」からの団体客が訪れた後なのかもしれない。スウェーデン政府がそんな国からの便を意図的にこの時間に集めている可能性は高い。


 タチアナは、有毒ガスから身を守るかのように、左手の親指と人差し指で鼻をつまんでてのひらで口をグッと押さえつける。口を使って控えめな呼吸をしながらドアが開いている個室を順番に見て回った。


 しかし、どの個室も状況はほとんど変わらなかった。

 最後の個室を覗き込んだところで気分が悪くなり、胃から逆流した、酸っぱいものが口の中に広がる。

 タチアナは思った。「ここは一秒たりとも居座る場所ではない。ましてや、エレンブルグ博士に使わせるなんてあり得ない」と。


「……タチアナ……早く……お願い……」


 静まり返ったトイレの中に苦しそうな声が響く。

 洗面所の脇で身体を丸めて横たわるウィノナ。ブロンドの長い髪を床の水溜みずたまりに浸しながら、目に涙を溜めて必死に訴えかけている。

 これまで目にしたことのない、弱々しい姿にタチアナはショックを受ける――そのときだった。


 奥から二番目の個室から水を流す音が聞こえた。

 続いて、何かがきしむような音とともに扉が開く。


 条件反射のように、タチアナは、ふところに忍ばせた拳銃に手を伸ばす。

 機内や空港内への拳銃の持ち込みは禁止されているのが一般的ではあるが、タチアナたちが搭乗した飛行機はソ連の国営会社のもの。また、スウェーデンは銃規制が緩いため、二国間の航空協定の中で拳銃の持ち込みは限定的に認められていた。


 タチアナの心配をよそに、個室から出て来たのはヨボヨボの老婦人。腰が九十度近く曲がり、赤色のブラウスに黄色のスカートという、年の割に派手な出で立ちが目を引く。首から下げた、旧式のカメラが床にりそうになっている。

 風貌は西洋人ながら、その垢抜けない身なりから「後進国のツアー客」といった雰囲気が感じられる。老婦人は、よくわからない言葉で歌を口ずさみながら、ゆっくりとタチアナの横を通り過ぎる。


 タチアナは老婦人が出てきた個室に近づいて中を覗き込む。

 次の瞬間、その顔に驚きと安堵がいっしょになったような表情が浮かぶ。

 なぜなら、その個室は便座も床も驚くほど綺麗で、今まで見たものとは雲泥の差だったから。トイレ全体に漂う臭いは仕方がないとして、ウィノナに使わせるには十分な環境だった。

 個室の壁に目をやると、ナンバーロック式の錠前が掛かっている。三ケタの数字をそろえて錠前を外せば壁の一部が開いて隣りの個室にいけるようになっている。

 タチアナは壁に顔を近づけて隙間から隣りを覗く。デッキブラシ、バケツ、ホースといった掃除道具が乱雑に置かれている。

 外に出て隣のドアを確認すると、スウェーデン語と英語で「道具置き場 関係者以外立入禁止」といった表示と、同じナンバーロック式の錠前がかかっていた。


「……タチアナ……もう駄目……出ちゃう……」


 悲壮感を増した、ウィノナの声が聞こえてきた。「こうしてはいられない」と言わんばかりに、タチアナはウィノナのところへ飛んでいくと、彼女を抱きかかえて個室の中へ連れていった。


 中からガチャリと鍵を閉める音が聞こえた。

 タチアナは小さく息を吐いて手洗い所の方へと向かう。

 再び悪臭が気になり出したのは、気持ちに余裕ができたからなのかもしれない。



 つづく

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