第15話 守るべきもの
★
九月三日の夕方、道場から帰る途中、春日はある場面に遭遇する。
二人対五人。まさに多勢に無勢な状況。五人は脅すような表情で二人を
「あっ……」
男子生徒の顔に目をやった春日は、驚きの表情を浮かべる。
絡まれている生徒の一人が、二日前に会った伊東温人だったから。
「わからねぇ奴だな。三万円持って来れば、痛い目見なくて済むって言ってるんだよ! どうすんだ!? ああっ!?」
五人の中の一人が左手で温人の胸倉を掴む。右手の拳を握って殴るような素振りを見せる。
弱い者を大勢で囲み暴力で従わせようとする行為は、古今東西いつの世もなくなることはない。
「止めろよ」
五人の背後で少し
全員の視線がほぼ同時に声の方を向く。
「ああっ!? 何だ? てめえは」
リーダー格の男が薄い眉毛をハの字にして、春日の方へ近づいて威嚇するような態度を取る。
しかし、我関せずという様子で、春日は木刀に巻かれた布をゆっくりと
「赤い木刀……こいつ、『疾風の春日』だ」
「高校生三人を病院送りにした、あの春日かよ?」
「なんでこんなところに……? 入院してたんじゃなかったのかよ?」
「ヤバイよ。ヤバイっすよ」
春日は右手で木刀を握って二度、三度振り下ろす仕草をする。ひゅんひゅんと風を切る音が不気味に響く。
「もう一度だけ言う――止めろよ」
春日は鋭い眼差しで五人を睨みつける。口調は穏やかながら、
「失せろ」
春日の一言に、五人は荒い呼吸をしながら顔を見合わせる。一人が足を踏み出したのが合図であるかのように、全員が足早にその場から退散する。
「おい、大丈夫か?」
春日が心配そうに声を掛ける。すると、温人といっしょにいた、気が弱そうな男子生徒は視線を逸らして
「だ、大丈夫です。あ、ありがとうございました!」
礼を言うが早いか、男子生徒は逃げるように去っていった。まるで先程の五人組のVTRを見ているようだった。
ヤレヤレといった様子で何度も首を横に振る春日。キョトンとした顔をする温人。春日のことをよく知らない温人には、何が起きたのか全く理解できなかった。
★★
「どうしてお前は、自分からトラブルに首を突っ込むんだ?」
木刀に布を巻きつけながら、春日は
「同じ中学の生徒みたいだったから、放っておけなくて」
「お前たち、知り合いじゃなかったのかよ!?」
「違います。顔は見たことがありますが」
温人は悪びれた様子もなく、穏やかな笑みを浮かべる。
『こいつ、どこまでお人好しなんだ?』
心のぼやきとともに、春日の口から深い溜息が漏れる。
「それにしてもトラブルが多過ぎないか? お前、二日前にも歩けなくなった年寄りを助けてただろ?」
春日の突っ込みに、温人は「まいったなぁ」という表情を浮かべて指先で頬をポリポリと
「実はよくあるんです。こういうこと。多いときは、一日五、六回はあるかもしれません」
「はぁ!? 五、六回!? 何だよ、それ。あり得ないだろ?」
春日は眉間に皺を寄せて「納得がいかない」といった表情を見せる。
温人は目を細めて考える素振りを見せると、何かを決断したように小さく頷く。
「これから話すこと、誰にも言わないでくださいね」
予想外の展開に春日は再び眉間に皺を寄せる。
ただ、もともと友達と呼べる者がいない春日は、温人から聞いたことを話す相手などいない。考えるだけ無駄だと思った。
「わかった。誰にも言わない」
温人は安心したような表情を浮かべて、
★★★
物心ついた頃から、温人には助けを求める声が聞こえた。
それは温人にしか聞こえない「
声の主は人とは限らなかった。怪我をして動けなくなった猫だったり
「アッチ! アッチ!」
幼い温人は時折どこかへ行きたがる素振りを見せた。まるで磁石に引き寄せられるようにある方向へ歩いていった。両親が後を追い駆けると、そこには決まって困っている誰かがいた。
温人に聞こえる声は、彼を中心に半径百メートル以内で発せられるものに限られ、その対象も犬、猫、猿といった、ある程度知能が高い哺乳類に限られた。
もし声が世界中から聞こえて、対象が全ての生き物だったとしたら、温人の頭の中には常に
その声は、温人が成長するにつれ次第に聞こえ難くなっていった。
例えるなら、車で遠出したとき、カーラジオのチューニングが合わなくなって雑音が大きくなっていくような感じ。
小さい頃は内容も場所もはっきり認識できたが、少しずつ感度が鈍り、中学に入学する頃には以前の半分程度しか聞き取れなくなった。
「変な話をしてごめんなさい。でも、嘘じゃないんです」
温人は視線を逸らして、どこか
視線を足元に落として、春日は何かを考えるような素振りを見せる。
春日は比べていた――目の前にいる温人と自分自身のことを。
あえてトラブルに首を突っ込み、一文の得にもならない人助けをする温人を「お人好し」だと思った。他方、春日には絶対に真似できないことをやってのける温人のことが「羨ましい」と思った。
生まれつき心臓に重い疾患を抱える春日は、他人に対して強い、負の感情を抱いている。周りがどうなろうと知ったことではなく、いつも無視を決め込んできた。
しかし、その日は違った。気が付いたら身体が勝手に動いていた。理由は簡単。そこに温人がいたから。温人のことが気になって仕方がなかったから。
『こんなことを繰り返していたら、
春日は不安と心配がいっしょになったような気持ちを抱く。
ただ、その気持ちの根底にあったのは、温人がトラブルに首を突っ込むのを「いかに止めさせるか」ではなく「いかに続けさせるか」。
温人の笑顔には人を引き付ける何かがあり、人を幸せにすることができるものだと思ったから。
『あたしが守ってやらないと』
春日は、自分自身に言い聞かせるように心の中で呟いた。
つづく
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