第14話 危なっかしい奴


 春日が初めてと出会ったのは、九月一日の朝――前週まで入院していたS大学付属病院へ手術後の定期健診を受けに行ったときだった。


 人気ひとけのない路地を大通りの方へ曲がると、学ランを着た男子が背中に老婦人をおぶって歩いていた。

 後ろ手には老夫人のものと思しき、草履ぞうりとハンドバッグ。「歩けない年寄りを病院へ連れて行く途中」。そんな様子が見て取れた。


 ふと布製の肩掛けカバンにデザインされた校章が目に入る。彼が春日と同じ「桜ヶ丘中学」の生徒であることがわかった――が、時刻は九時二十分。始業時間はとうに過ぎている。

 気になったのはだけではなかった。


『こいつの歩き方……ヤバくないか?』


 春日は眉をひそめて男子生徒の後ろ姿をしげしげと見つめた。

 左へ寄っては民家の塀に当たりそうになり、右へ寄ってはふたの掛っていない排水溝へ落ちそうになる。まるで千鳥足で歩く酔っ払いのようで、いつ何どき転倒してもおかしくない。


「おい!」


 堪りかねて春日は声を掛ける。すると、男子生徒は身体をビクッとさせてこちらを振り返った。


「すまんねぇ。急に足が痛くなって歩けなくなっちまった。道路にしゃがみ込んでたら、この人が声を掛けてくれてねぇ。病院へ連れて行ってくれるって言うもんだから甘えちまったんだ。本当にすまなんだねぇ」


 男子生徒がとがめられると思ったのか、背中の老婦人が申し訳なさそうな顔で状況を説明する。


「お婆ちゃん、謝らないでください。僕が自分の意思でやったことですから」


 間髪を容れず、男子生徒は首を横に振る。老婦人に向けた、柔和な眼差しから優しさが溢れている。

 その顔を見た瞬間、春日は不思議な気持ちを抱く。どこかホッとするような感覚が湧きあがり、心が穏やかになっていった。


「お、お前、どこから来たんだよ?」


 ハッと我に返った春日は戸惑ったような表情を見せる。


「確か……K町の陸上競技場があるあたりです」


「競技場? あんなところからかよ!?」


 競技場からは三キロ近くある。いくら痩せた年寄りだからと言って、中学生がおぶって歩くには厳しい距離だ。春日は彼の足元がふらついている理由を理解した。


「病院はどこだよ? まだ遠いのか?」


 春日は心配そうに尋ねる。遠いようであれば、大通りに出てタクシーを拾おうと考えた。


「S大学の付属病院だよ。ほら、そこに看板が見えるだろ? 大通りに出て左に曲がったところだよ。すまんねぇ」


 老婦人が指を差しながら説明する。大通りと路地が交差する手前の電柱に、S大学付属病院の案内表示が出ている。二人は春日と同じ病院へ向かっていた。


「荷物、貸せよ。持ってやるから」


「大丈夫です。すぐそこですから」


「そんなフラフラで大丈夫なわけないだろ? お前が転んだら怪我をするのはお前だけじゃないんだぜ」


 春日は男子生徒から肩掛けカバンと老婦人の荷物を奪い取ると、パンパンに膨らんだカバンを右肩に掛けた。ベルトがグッと肩に食い込む。春日が使っている手提げカバンよりもずっと重い。


「ありがとうございます」


 男子生徒が、さっき見せたのと同じ、爽やかな笑みを浮かべる。


「どうってことない。急ごうぜ」


 少し照れたように視線を大通りの方へ向けると、春日は二人の前をそそくさと歩き始めた。


★★


 男子生徒は老婦人から預かった診察券を、一階の整形外科の受付にいる事務員へ手渡す。これまでの経緯を説明して、老婦人の家族へ連絡を取ってもらうようお願いした。


「本当にすまんねぇ。何から何まで」


 長椅子に腰を下ろした老婦人は、申し訳なさそうな顔でしきりに詫びを入れる。

 それには二つの理由があった。一つは、何かあったときのために渡されていた携帯電話を家に忘れてきたこと。もう一つは、家の電話番号を忘れてしまったこと。

 事務員が、登録されている緊急連絡先へ電話を掛ける。すぐに電話が繋がり家族が迎えに来ることになった。

 男子生徒はホッとした表情を浮かべて小さく息を吐く。


「じゃあ、僕はこれで失礼します」


 男子生徒はペコリと頭を下げて、その場を立ち去ろうとする。

 しかし、老婦人が彼の学ランの裾を「グッ」とつかむ。


「すまんが、名前と電話番号を教えてもらえんか? 娘から聞いておくよう言われてね」


 おそらく後で礼をするためだろう。

 男子生徒はしきりに断るが、老婦人は何を言ってもがんとして聞こうとしない。「教えてくれんとわしが怒られる」。きずの付いたコンパクト・ディスクのように同じフレーズを繰り返すだけだった。


「わかりました」


 根負けした男子生徒は事務員からもらったメモ用紙に名前と電話番号を記入する「伊東いとう 温人はると 〇四五-八×八-×××四」


「あんた、下の名前は何て読むんだい?」


「『はると』です」


「ハルト……? ハルトって言うんかい!? わしの孫にも漢字は違うがハルトがいてね。まだ幼稚園だが、これが可愛い子でね」


「偶然ですね」


 目尻を下げて延々と孫の自慢話をする老婦人に、嫌がる素振りも見せず、温人は笑顔で受け答えをする。顔に人の良さがにじみ出ている。


『ハルトって言うのか。こいつ』


 離れたところから二人の様子を眺めていた春日は何度も首を縦に振る。

 ちなみに、春日には「ハルト」という名前の人間が知り合いにいるわけではない。


「あっ、学校へ行かないと!」


 腕時計に目をやった温人は玄関の方へ向かって走り出す。


「おい! ちょっと待てよ!」


 大きな声を上げる春日。温人が足を止めてこちらを振り返る。


「お前、カバン忘れてどうするんだよ?」


 春日は、自分の細い肩に掛けた、温人のカバンをこれ見よがしに指差す。

 自分がカバンを持っていないことに気付いた温人は、恥ずかしそうに頭を掻く。


「ごめんなさい。それから、ありがとうございます」


 春日からカバンを受け取ると、温人は身体が直角に曲がるぐらいに深々と頭を下げる。そして、正面玄関から勢いよく飛び出して行った。


「伊東温人……危なっかしい奴」


 烙印らくいんを押すような言葉を口にする春日だったが、その顔には穏やかな笑みが浮かぶ。普段他人に興味を示さない彼女にしては、とても珍しいことだった。

 次の瞬間、春日はハッとしたような表情を浮かべる。自分らしくない自分に戸惑いを隠せなかった。



 つづく

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