第39話 バランサー・プロジェクト(その1)
★
今、日本で大きな問題が起きている。
これまで使われてきた「四大疾病」に、新たに精神疾患が加わり「五大疾病」と呼ばれるようになった。
人が社会生活を営むうえで確執や衝突の
学校の友人や会社の同僚はもちろん、血の繋がった家族との関係も希薄になり、悩みや不安を相談できる相手がいないことで孤立し自らを死に追いやるケースが後を絶たなくなる。さらに、精神疾患者を言葉巧みに誘い出し、虫けらのごとく殺して楽しむ者まで現れる。
右肩上がりに増えていく、自殺と殺人は、精神疾患がもたらす社会現象として論じられるようになり、いかに対策を講じるかが国の最優先事項と位置付けられた。
高齢化が急速に進む中、労働力人口の減少による国力低下にただならぬ危機感を抱いた日本政府は、非常事態宣言を発令し、精神疾患の予防と治療を行うべく様々な施策を展開する。
しかし、期待した効果は上がらず、状況は悪化の一途を辿る。国会で槍玉にあげられ、世論から強烈なバッシングを受け、内閣の支持率は急落する。
日本の置かれた状況を把握した冬夜は、日本政府に対して事態を打開するための提案を行うことを考えていた。それが「バランサー・プロジェクト」。
★★
「バランサー」とは、ある組織や団体における、勢力や権力の
勢力拡大を目論む列強が
産業革命の恩恵を受け、強大な軍事力・経済力を背景に覇権国家としての地位を築いたイギリスは、列強と領土を接しない地理的環境から、ヨーロッパ大陸を
ある国が軍事力を増強させることで
結果として、イギリスは各国の力を一定レベルに抑え込むことで覇権国家としての地位を維持するとともに、「大陸の秩序を維持するバランサー」として一定の評価を得ることとなる。
★★★
日本の非常事態に際し、冬夜自身がバランサーを担うわけではない。
冬夜がやろうとしているのは、薬物治療、カウンセリング、リハビリといった、既存の治療法とは異なる、全く新しいアプローチ――精神的に不安定な状態に陥り、社会生活に適合できなくなった疾病者「
具体的には、開頭手術により
バランサーとは実態を持たない電磁的存在。
実際、
バランサーは
バランサー・チップは大きさが十六平方マイクロミリメートルの精密パーツ。細部は肉眼では確認できず、その製作から手術までを人工知能が搭載されたロボットが寸分違わず行う。
開頭手術と聞くと「数時間に及ぶ、命の危険を伴う難手術」といったイメージがあるが、事前に患者の身体の状態や手術の段取りは確認されているため、機械的な作業に過ぎない。裂けた皮膚を数針縫い合わせる外科手術より少し難易度が高いレベルで、全身麻酔から終了までは二時間程度。
チップの数は全部で八つ。埋め込まれる場所は「大脳」の五感の記憶領域五箇所と、脳の一番奥にある「脳幹(爬虫類の脳)」、真ん中にある「大脳辺縁系(馬の脳)」、一番外側にある「大脳皮質(人の脳)」の三箇所。
予め脳内の座標を決めて脳全体を包み込むように埋め込まれ、相互に電流の発信・受信を行うことで電磁ネットワークを構築する。これにより脳を保護するとともに、潜在能力や長期記憶のポイントを刺激することで、普段数パーセントしか使われていない能力や記憶を百パーセント近く引き出すことを可能にする。
チップを介して収集される情報は単なる記憶に留まらず、
これにより、システムは
好きなようにやらせていては、
普通に考えれば、精神疾患者に負荷を掛けるのは病状の悪化につながる恐れがあるが、もともとバランサーは疾患者の分身と言える存在であり、それを無理なく行うことができる。もちろん社会復帰した後もパートナーとしてのバランサーを存続させることは可能である。
全てのバランサーはコンピューターにより集中管理されており、
そのため、バランサー同士は互いの存在を認識することができ、さらに、
なお、第三者にはバランサーの存在を認識できないが、システム管理者は、持ち運びが可能なノートパソコン大の管理者端末を通して、バランサーの姿や言動を把握しコミュニケーションをとることができる。
精神疾患の症状は、軽度・中度・重度の三段階に分類されるが、意識がなかったり自分が誰なのか認識できないレベル――「重度」には効果はない。
また、部分的な記憶障害や機能障害が見られる「中度」への効果は五分五分で、それより軽い「軽度」であれば効果は十分に期待できる。
ただし、「重度」の精神疾患者を救う手立てがないわけではない。「効果がない」というのは「元の人格を復元できない」という意味であり、人として社会復帰させることは可能である。
それは、トラブルが発生したパソコンを
★★★★
一通り説明を終えた冬夜は、時計に目をやる。時刻は十六時を少し回ったところ。話し始めて二時間近くが経っていた。
冬夜の話に耳を傾けていたヘレナとドロシーは、話が終わった後も黙ったままだった。
「……冬夜、そんな夢みたいなことが本当にできるのか?」
沈黙を破ったのはヘレナの一言だった。
その顔には驚きと疑念がいっしょになったような表情が浮かんでいる。
当然と言えば当然。冬夜の話は神経科学の領域を超えたもの――SF映画にでも出てきそうな、突飛な内容だったから。
「できます。PTの研究で培われた技術と超人研究の成果があれば理論上は可能です」
冬夜はヘレナの疑問を一蹴するように、自信満々といった様子で言い放つ。
「懸案事項があるとすれば、バランサー・システムの製作に係る資金の調達です。日本政府と交渉するにしても、『はい。わかりました』とは言えない額ですから」
「そのとおりね。PTとも超人計画とも縁もゆかりもない日本がそんな話を受け入れるとは思えないわ。売り込むならアメリカの方が分がありそう。アメリカに当ったらどう?」
ドロシーが冬夜の方へグッと身を乗り出す。
しかし、冬夜はゆっくりと首を横に振った。
「アメリカはダメです。知り過ぎています」
「知り過ぎている……? どういう意味?」
ドロシーは眉間に皺を寄せて怪訝な表情を浮かべる。
ヘレナは何も言わず冬夜の顔をジッと見つめる。
「アメリカ当局はPTのコア技術を持っています。さらに、超人研究の技術を欲しています。もし研究・開発過程で彼らが携われば、きっとバランサー・システムではない何か――人体兵器を作り上げるでしょう。それは、ヘレナさんが望むものではありません」
表情こそ変わらないが、冬夜の声が大きくなる。
その瞬間、ヘレナの脳裏に、あのときの冬夜の言葉が蘇る。
『あなたの過去が、人を幸せにするためになくてはならないものであることを、ボクが証明してみせます。約束します』
ヘレナの顔に笑みが浮かぶ。冬夜の気持ちがとてもうれしかったから。
「一刻も早く妹を助けたい」。そんな
「私の言い方が悪かったわ。忘れて」
「気になさらないでください。悪気がないのはわかっています。ドロシーさんがボクのことを真剣に考えてくれている証拠です。ありがとうございます」
冬夜の言葉にドロシーは照れくさそうな顔をする。
「冬夜、まだ肝心なことを聞いていない」
不意にヘレナが口を開く。笑顔が消えて天才神経学者の表情に戻っている。
「バランサー・システムについてだが、キミが説明してくれたものが全てだとしたら、キミの妹を助けることなどできない。PTで命は救えるかもしれないが、眠ったままの状態が続くだけだ」
隣りで聞いていたドロシーが「その通り」と言わんばかりに何度も首を縦に振る。
冬夜は真剣な眼差しをヘレナの方へ向けて、ゆっくりと口を開く。
「今説明したのは、あくまでバランサー・プロジェクトの『
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます