第30話 前に進むために


 冬夜は、ヘレナに悪いとは思いながら、調査機関を使って彼女のことを調べることにした。

 報告書が上がってきたのは、依頼から二ヶ月余りが経った四月の中旬。冬夜がNIHに入所した後のこと。


 報告書に目を通した瞬間、冬夜は深い溜息をつく。

 一縷いちるの希望が妄想だったことを認めざるを得なかったから。


 ウィノナが生きていれば六十四歳。一方、ヘレナの年齢は七十四歳。彼女はルイジアナ生まれカリフォルニア育ちの生粋のアメリカ人。両親は既に亡くなっており兄弟姉妹はいない。

 婚姻歴はなく三十年前からロサンゼルス郊外にメイドと二人暮らし。茶褐色の肌は南部出身の黒人だった曽祖父そうそふの遺伝。

 農場経営者だった父親が教育熱心だったことで、ヘレナは冬夜と同じC大学メディカルスクールで医学を学んだ。そして、卒業後はフリーの研究者としてNIHとコンサルティング契約を結び現在に至っている。


 ヘレナの経歴から、旧ソ連との接点は何一つ見い出せなかった。

 強いて言えば、NIHのカフェテリアでロシア料理を注文したことぐらい。


 ヘレナとウィノナが別人であることははっきりした。それは、冬夜の中で一つの希望がついえたことを意味する。

 「落ち込んでいる暇などない」。冬夜は気持ちを切り替えた――と言いながら、ウィノナのことを諦めたわけではない。二人がどこかで繋がっているといった希望は捨てなかった。以前どこかで会ったことがあるとか、共同研究をしたことがあるとか、何らかの接点があることを期待した。


★★


 四月二十日、NIHの研究員としてPTの戦略会議ストラテジーミーティングに出席した冬夜は、午前の部が終了した後、ヘレナといっしょにカフェテリアでランチをとる。

 相変わらず口数が少ないヘレナだったが、ここ三ヶ月、冬夜が執拗にメールや電話でコミュニケーションをとったこと、また、二月と三月の戦略会議のときもいっしょにランチをとったことで、雰囲気はそれほど気まずいものではなかった。


 冬夜はどうしてもヘレナに「あること」を確認したかった。確認しておかなければならないと思った。

 これからヘレナと付き合っていくうえで、モヤモヤした気持ちを抱いたままでは良い結果に結びつくとは思えなかったから。


 冬夜はナイフとフォークをそろえて皿の上に置いた。皿にはステーキが半分以上残っている。

 正面に座るヘレナのスプーンを持つ手が止まった。


「どうかしたのか? 体調でも悪いのか?」


「ヘレナさん、一つ訊きたいことがあります」


 冬夜は真剣な眼差しをヘレナへ向ける。

 その表情に何かを感じたのか、ヘレナは静かにスプーンを皿の上に置くと、ナプキンで口の周りをぬぐった。


「答えられることと、答えられないことがある」


 ヘレナは、いつものポーカーフェイスで冬夜に鋭い視線を返す。


「エレンブルグ博士――ウィノナ・エレンブルグのことを知っていますか?」


 唐突な一言だった。ただ、神経科学を勉強している冬夜の口から飛び出してもおかしくない一言でもあった。

 一瞬間が空いて、ヘレナは首を縦に振る。


「知っている。神経科学の世界では有名人だからな。いろいろな意味で」


「ヘレナさんはエレンブルグ博士と面識があるんですか? 学会で話したことがあるとか、共同研究を行ったことがあるとか」


「旧ソ連の体制を考えれば、それはあり得ない。それに、彼女はノーベル賞受賞者で雲の上にいるような人だ。私みたいなのと接点がある方がおかしい。名前を知っているだけだ」


「そうですか。期待したのですが。『天才と天才は引き合う』なんて言いますから、お二人はどこかで繋がっているかと思いました。残念です」


 冬夜は皿の上のステーキに視線を落として小さく息を吐く。


「なぜ急にそんな話をした? 彼女の論文でも調べているのか?」


「いえ、そういうわけではありません。エレンブルグ博士の論文で公表されているのは一にも二にもノーベル賞論文しかありません。知りたいのは……旧ソ連にいたときの研究内容です」


「研究……? 何か研究をしていたのか? 彼女は」


 ヘレナは冬夜の目を見つめたまま、水の入ったグラスを手に取る。


「二つあります。一つは、まさに今、NIHで進められているPTに繋がる『脳移植』に関することです。もう一つは……信じられないかもしれませんが、『潜在能力の引き出し』により人を超えた存在を作り出そうとするもの。当時『超人研究』と呼ばれていたそうです」


 ヘレナの口に向かっていたグラスが宙ぶらりんの状態で止まる。水を飲むことなく、彼女はグラスをテーブルの上に置いた。


「医学の域を超えている。小説のネタにでもなりそうな話だ。でも、キミはなぜそんなことを知っている? 話を聞く限り、機密事項としか思えないが」


 ヘレナの語気が強まる。冷静な彼女にしては珍しい。


「旧ソ連の研究室でエレンブルグ博士といっしょに研究に携わっていた人の話をで聞きました。

 当の本人は認知症が進行していましたから事実かどうかはわかりません。ただ、ボクはそれが事実であることを前提に彼女の行方を探しています」


「なぜ彼女の研究に固執する? キミはそれを使って何がしたい?」


 ヘレナが冬夜の方に身を乗り出す。鋭い眼差しに感情が見え隠れする。冬夜が初めて目にする彼女だった。


 冬夜は自分の目的を明かすのがいいかどうか迷った。それにより、ヘレナが自分に対して距離を置くことを恐れたから。

 しかし、すぐに「そんなことを言っている場合ではない」と思い直した。

 現段階での最優先事項はウィノナに辿り着くことだったから。「彼女に会うためなら何だってする」。冬夜は改めて自分に言い聞かせた。そして、ヘレナにすべてをさらけ出すことを決めた。


「エレンブルグ博士の研究成果があれば、ボクがアメリカへ来た目的が達成できるからです」


 冬夜はヘレナの目をジッと見つめて、言葉を選ぶように話し始めた――妹・春日のことを。



 つづく


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