第31話 揺れる思い


 夕暮れの到来を告げる、涼しげな風が吹き始めた頃、黒塗りの車が二階建ての洋館の前に止まった。

 音を聞きつけたドロシーは、フラワーポットで飾られた石畳のアプローチを門の方へと向かう。そして。後ろのドアの脇に立つ運転手に、いつものように小さく会釈をする。

 

「おかえりなさい。ヘレナ」


「……ただいま」


 車から降りてきたヘレナは蚊の鳴くような声でポツリと呟くと、ドロシーと目線を合わせることなく、そそくさと屋敷の方へ向かった。

 運転手への挨拶もそこそこに、ドロシーは慌ててヘレナの後を追う。


「ヘレナ、どうかした?」


 リビングのソファに腰を下ろすヘレナに、ドロシーが心配そうに声を掛ける。


「何か変?」


「変じゃないけど……戻っちゃったみたい。十二月以前のヘレナに」


 ドロシーは少し首を傾けて小さく笑う。


「どういうこと? 最近の私とは違う?」


「ええ。一月の会議以降のヘレナと今のヘレナは別人みたい。これまでが『結婚式の当日』なら、今回は『お葬式の当日』って感じ」


「そう……」


 ヘレナは視線を逸らして、庭が見渡せる、大きな窓の方へ目をやる。窓の外に広がる空はオレンジ色に染まり、ガラスを通して西日が射し込んでいる。

 陽の光をさえぎるように、ヘレナは右手を窓の方へかざす――次の瞬間、彼女は目を大きく見開き、首を横に振って何かを振り払うような仕草をする。


「ヘレナ、苦しいことを溜め込んではダメ。どんなことでも話して。そのために私はいるんだから」


 ソファの背に立ったドロシーが、後ろからヘレナの両肩を抱きながら耳元でささやく。ヘレナの顔が穏やかなものへと変わっていく。


「そうね。私のことを理解してくれるのはドロシーだけ」


 ヘレナはドロシーの両手に自分の手を重ねて、呼吸を整えるように息を吸ったり吐いたりを繰り返す。


「今日、冬夜から相談があった」


「トウヤ? 日本から留学してきた姫野冬夜ね。彼が何か?」


 三ヶ月前からヘレナとの会話の端々はしばしに冬夜が登場した。「ヘレナにとって特別な人物」。ドロシーはそう認識していた。


「冬夜は……ウィノナ・エレンブルグに会いたがっている。私に彼女のことを訊いてきた」


 その瞬間、ドロシーの顔色が変わる。ヘレナの正面に回り込んで床に膝を付くと、うつむき加減の顔を覗き込んだ。


「それで? 何て答えたの? まさか……」


「『名前は知っている』と答えた。彼女は神経科学の世界では有名人だから」


 ドロシーはホッとしたような表情を浮かべる。


「でも、冬夜はウィノナの『超人研究』のことも知っていた。そして、それが必要な理由も話してくれた」


 その一言が何かの合図であるかのように、ヘレナの表情が戸惑いと悲しみが入り混じったものへと変わる。


「ヘレナ……?」


 心配そうに見つめるドロシーにヘレナは冬夜から聞いたこと――妹の命を救うために研究成果が必要であることを話し始めた。


★★


 窓から射し込む、陽の光がフローリングの床をオレンジ色に染めていく。

 一通り話し終えたヘレナはオレンジ色の床をぼんやりと見つめる。

 二人の間に重苦しい沈黙が立ち込める。


「ヘレナ、これ以上首を突っ込んではいけない」


 沈黙を破ったのはドロシーの不安気な一言だった。


「三十年が経って危険は薄らいだ。でも、無くなったわけじゃない。は正体を隠してどこかに潜んでいる。あなたのことを知った瞬間、きっとあなたを狙う。拉致されるか殺されるか……そんなことになったら、容姿はもちろん目や髪の色まで変えたこと、国家安全保障局NSAに働きかけて経歴や年齢を作り上げたことも全て無駄になる。こんな話をしていること自体危険でもある」


 ドロシーはグッと唇を噛んで潤んだ瞳をヘレナへ向ける。


「ありがとう。心配してくれて」


 ヘレナは、ドロシーが自分のことをどれほど大切に思ってくれているのかを改めて悟った。「これ以上彼女を苦しめてはいけない」。床に腰を下ろしてドロシーをしっかり抱き締めると、自分にそう言い聞かせた。


「『脳移植』は人の命を長らえさせる可能性を秘めたもの。だから、これまで研究を重ねてきた。ただ、『誰かを助けるために他の誰かを犠牲にする』というのは絶対に避けたかった。その結果、研究は「Personality TransferPT(人格移送)」として実を結んだ。

 PTが完成した暁には、事故や疾病で個体を修復できなくなった者を救うことができる。本当に重要なのは、データ化された人をいかにして蘇生するか。ただ、それは私の研究を引き継ぐ誰かが、いつかきっと形にしてくれる……。でも『超人研究』は違う」


 ドロシーから身体を離したヘレナは、厳しい顔つきで首を左右に振った。


「それは決して人が踏み込んではいけない領域。人の脳に手を加えることで眠っている能力を引出し『人であって人にあらざる者』を作り出す技術。何百人もの人の死の上に成り立つ、呪われた技術。

 その存在を表に出してはいけない。表に出すことで、数え切れないぐらい、たくさんの人が死ぬ。私の中で無きものにしておかなければいけない」


 ヘレナは小刻みに身体を震わせる。額からポタポタと汗が流れ落ちる。

 それは、超人研究にまつわる過去がヘレナにとってあまりにも重いものであることを物語っていた。


 三十年前、ドロシーは、亡命したウィノナを守るために国家安全保障局NSAから派遣された。今でも銃やナイフ、爆薬のたぐいを使いこなすことができ、その気になれば人を殺すことも辞さない。

 これまで、メイドとしてヘレナと寝食をともにしながら、彼女を旧ソ連の息が掛った者から守ってきた。そして、これからも自分の命が尽きるまでヘレナを守り続けたいと思っている。

 そのためには、ヘレナが自分の素性をカミングアウトすることは何としても阻止しなければならなかった。


 ドロシーは白い歯を見せて小さく頷く。

 しかし、ヘレナはどこか後ろめたい気持ちがあった。

 なぜなら、ヘレナの心には、呪われた過去を封印したいと思う自分と冬夜の願いを叶えたいと思う自分の間で激しい葛藤があったから。


 亡命するとき、ヘレナは誓った。「これまであやめてきた人の何倍もの人を救ってみせる」と。

 そんな気持ちを胸に、ヘレナは一心不乱に研究に没頭し、縁の下の力持ちとしてアメリカの医療に多大な貢献をしてきた。

 もし冬夜に「超人研究」のことを話せば、その技術が悪用される可能性は否めない。結果として、多くの人の死に繋がる。


 冬夜の話によれば、妹が患っているのは心臓疾患。ウィノナの脳神経に関する研究が助けになるとは思えない。

 しかし、天才たる冬夜の能力――既存の思考や技術、または、それらを発展させた仮説を用いることで、ジグソーパズルの足りない部分を埋めるように前提を結論に導く能力があれば、必ずしもそうとは言い切れない。

 おそらく、冬夜の頭の中ではシミュレーションができあがっており、「ウィノナ・エレンブルグ」というピースがそろえば、シミュレーションを具体的な行動に移すことができるのだろう。


 ヘレナの葛藤の背景にあるのは冬夜への思いだった。


 初めて会ったとき、ヘレナは冬夜のことが気になった。それは今まで抱いたことのないような、不思議な感覚。最初は理解できなかったが、時間が経つにつれ、自分が冬夜に惹かれていることに気付いた。

 親子以上に年が離れている冬夜に胸をときめかせるのは非常識極まりない。恥ずべき行為としか言いようがない。そのことは自分でもわかっていた。わかっていながら、どうしようもなかった。


 十歳のとき、ウィノナは党に両親を殺された。そのときから、彼女は自分の感情を心の奥底に封じ込め「氷の女王リョート・ダーマ」として生きてきた。言い換えれば、十歳のとき、彼女は自分の手で自分を殺した。

 しかし、彼女は死んではいなかった。冬夜と出会ったことがトリガーとなって、多感期の少女の心が発現した。


 ヘレナの心は大きく揺れていた。



 つづく

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