第41話 日本へ行こう


 細かい文字と関数のグラフ、それに、グロテスクな臓器の写真で埋め尽くされた、分厚い医学書を眺めていたヘレナは、銀縁の眼鏡を外して、両目の内側を親指と人差し指でグッと押させた。

 リビングの窓から見えるのは、塀に沿って立ち並ぶ、マグノリアの木。まるで雪が積もるように、大きな白い花が咲きこぼれている。


「冬夜、日本には雪が降るのか?」


 視線を外に向けたまま、ヘレナはポツリと呟く。

 隣りに座っていた冬夜はキーボードを叩く手を止めると、テーブルの上のカップに手を伸ばして紅茶を少し口に含んだ。


「はい。地域によっては、膝まで積って鉄道が運休したり道路が通行止めになったりするところもあります。ボクの住んでいた地域はほとんど降りませんでしたが、北の方や山間部では冬になるといつも雪が舞っています。

 ロスは年間を通して最低気温が十度前後ですから、雪が降るなんて考えられませんよね? でも、ロシアは日本より北に位置しますから、ヘレナさんは雪なんか珍しくないんじゃないですか?」


「そうでもない。私の故郷はロシアの最南端クリミア半島のヤルタのあたり。年間の平均気温は十度を超えている。冬はマイナスになることもあるが、降ってもチラホラだ。黒海に面しているのでいつも温かい風が吹いている。雪なんてほとんど見たことがない。モスクワは大雪になるが、あそこでの記憶は研究以外残っていないからな」


 ヘレナも冬夜に釣られるように、フルーツ柄のカップをつまんで口元へ運ぶ。


「そうなんですね……じゃあ、一段落付いたら冬の日本を案内しますよ」


 カップが口に到達する前にヘレナの手が止まる。


「あたり一面の雪景色や樹木が凍った樹氷はとても綺麗です。キツネやリスといった野生動物に会えることもあります。

 雪国独特の合掌造りの家で囲炉裏いろりを囲んだり、雪の降る中で露天風呂の温泉に入ったりして日本の文化に触れることもできます」


 ポーカーフェイスながら、冬夜はどこかうれしそうに話す。

 ヘレナは、手に持ったカップをソーサーの上に置くと、目尻を下げて笑みを浮かべる。


「連れて行ってくれるのか?」


「はい。外に連れ出すのは危険が伴いますが、ドロシーさんに同行してもらえば大丈夫です。立ち寄る場所を事前にチェックして安全を確認しておけば、彼女も許可してくれるでしょう」


「……そうだな」


 ヘレナの声のトーンが沈む。心なしか笑顔も先程とは違って見える。


『仕方ない。私はいつになっても「お尋ね者」だからな』


 心の中で呟きながらヘレナは努めて笑顔を見せる。


「冬夜、約束だぞ。目の前にニンジンをぶら下げて走るだけ走らせておいて、いざとなったら『食べさせない』なんて話は無しだ」


「わかっています。そんなことをして、ヘレナさんに絶交されたら目も当てられません。ボクは『大切な人』を失うことになります。そんな自虐行為は死んだってお断りです」


「約束したぞ」


 ヘレナは再び分厚い医学書に目を向ける。

 しかし、心の中では複雑な戸惑いを覚えていた。

 冬夜に「大切な人」と言われたのはとてもうれしかったが、当然のことながら、それは「尊敬する人」という意味であって「一人の異性」という意味ではない。

 

 また、冬夜といっしょに日本へ行けるのは、ロスはおろか家の中から出る機会もほとんどなかったヘレナにとって、言葉で言い表せないほどうれしいこと。

 これまで外出するときは、家の前から送り迎えがつくか、ドロシーが身体を寄せて護衛をした。「冬夜と二人で日本へ行けたら」。そんな気持ちが湧きあがっていた。

 ドロシーのことが嫌いなわけではない。彼女は無二の親友であって、無くてはならない存在。彼女がいなければ、今頃どうなっていたかわからない。


 ヘレナはモヤモヤした何かを払拭できずにいた。

 常にドロシーに守られながら、冬夜への思いを打ち明けることもできず、師と弟子もしくは祖母と孫のような関係を続けていくことに葛藤を抱いていた。


★★


 二〇一八年六月、バランサー・プロジェクトの設計書と施行計画書が形になる。

 冬夜は日本政府との交渉を行う前段で「大河内健吾」と連絡を取る。


 健吾は、冬夜がK大学に在籍していたときの友人で二十七歳。

 法学部卒業後、衛生医療省にキャリア官僚として入省し、現在総合政策局政策企画課の課長補佐を務めている。父親は衛生医療分野で政治活動を行う衆議院議員・大河内健蔵。健吾は父の後を継ぐことを念頭におきながら医療行政に従事していた。


 当時から健吾は執拗に冬夜に着きまとった。

 その理由は、将来、自分が代議士になった際、ブレインに冬夜を迎え入れたかったから。

 冬夜が渡米した後もメールによる、定期的な連絡を絶やすことはなく、健吾の思いは真剣そのものだった。

 当時、健吾の人生設計を聞いたときには「自分には関係ないこと」と右から左に流した冬夜だったが、いつしか考えを改める。それは、冬夜の目的を叶えるにあたって「健吾」というピースが不可欠であることを認識したから。

 冬夜は健吾のメールにはできるだけ返事を返すようにした。ただ、研究内容を訊かれたときは「アメリカ政府の機密事項」という、それらしい理由を付けて言葉を濁した。


「冬夜じゃないか。久しぶり。声を聞いたのは何年ぶりだ……? 悪い。国会の会期中で立て込んでるから、後で電話する。そっちは午後七時過ぎだから、三時間以内には電話する」


 申し訳なさそうに健吾は電話を切る。昼休みを見計らって電話をしたが、国会会期中のキャリア官僚には休みなどないようだ。

 ただ、何年ぶりかで聞いた声は相変わらずパワフルで、声を聞いた瞬間、ところどころ金色に染めた髪を首の後ろで結んだ奇抜なヘアスタイルと、黒縁の眼鏡の奥で鋭い眼光が目に浮かんだ。

 健吾からNGが出れば計画の変更を余儀なくされるだけに、珍しく緊張していた冬夜だったが、声を聞いて緊張が抜けていく気がした。


 午後十時前に健吾から電話がかかってきた。

 屋外から掛けているようで、けたたましいパトカーのサイレン、黒塗りの街宣車が流す軍歌、デモ行進をする群衆から湧き上がるシュプレヒコールなどが聞こえてくる。健吾がいるのは中央官庁が集まる霞が関。電話を通して様子が手に取るようにわかった。


「できるだけ早い時期に会って話がしたい」


 そんな冬夜からの申し出に、健吾は言葉を失う。自分の耳が信じられなかった。まさか冬夜が自分を頼ってくるとは思ってもみなかったから。

 大袈裟な言い方かもしれないが、ダメ元で猛烈にアタックし続けた女性から、突然「好き」という意思表示をされたような気分だった。同時に、冬夜が常識では考えられない、とんでもないことを考えていると思った。

 健吾の中で期待感がムクムクと膨らみ胸がおどった。


「わかった。夕方以降でお前の都合の良い日を教えてくれ。何があっても優先する」


 こうして、二人は七年ぶりの再会を果たすこととなる。



 つづく

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