第35話 超人研究(その2)


 人は、長期記憶を「大脳皮質(人の脳)」に、短期記憶を「大脳辺縁系(馬の脳)」に、それぞれ格納している。


 一週前に見たテレビドラマ、三日前に聞いた話、前日に食べたランチ。それらは記憶に残っていることが多い。しかし、三ヶ月後には詳細が思い出せなくなり、半年後にはその記憶は曖昧になり、一年以上経つとそんな事象があったことすら忘れてしまう。

 「忘れる」というのは、記憶自体は脳内に存在するものの、呼び出せない状態だと考えられた。まれに消えてしまうこともあるが、それは病気や事故といった、突発的な事象に起因するものであって、脳の容量不足シャパシティ・ラックにより古いものから順に消えていくものではない。脳の容量は膨大で、いくら長く太い人生を送ったとしても容量が足りなくなることはあり得ない。


 ある事象がきっかけとなって突然昔のことを思い出すのはそのためであって、本人が意識していないだけ。

 一年以上前の記憶でもはっきり憶えているものは、日々接している人や物に関することだったり、定期的に忘れないよう努めているものだったりする。

 いっしょに暮らしている家族の顔や名前、勤めている会社の就業規則などは何年経っても忘れることはない。


 このように、古い記憶というのは、自由に取り出すことができないだけで、すべて「大脳皮質」に格納されている。

 ただし、これまで、長期記憶の領域にアクセスしてそれを取り出すすべを身につけた者がいないわけではない。彼らは俗に「天才」と呼ばれ、歴史にその名を刻んでいる。


★★


 超人研究の人体実験を続けていたウィノナは、あるとき、天才のみが持ち得るとされたすべを発見する。


「……久しぶりに食べたよ……母さんが作った……ブラニ……相変わらず美味しい……」


 手術台に横たわる、若い被験者は焦点の合っていない目を宙に泳がせ、身体のあちこちを小刻みに震わせながらそんな言葉を発した。ちょうど大脳皮質のある部分に二ミリアンペアの電流を流したときだった。


 ブラニとはA国の家庭料理で、揚げたナスにニンニクとケチャップをかけて蒸した後ヨーグルトを掛けたもの。もちろん被験者がその場でブラニを食べていたわけではなく、長期記憶が保管された部分に刺激を与えたことで、幼い頃に食べた料理の味が蘇ったもの。


 もともと人間の体内には生体電流が流れているが、その大きさは百から二百マイクロアンペア。一アンペアが百ミリアンペアで、一ミリアンペアが千マイクロアンペア。そのとき流した電流は生体電流の十倍から二十倍。

 これまで被験者の脳の各所に大きさが異なる大きさの電流をランダムに流したが、そのような反応が見られたのは初めてだった。


「ブラニはどんな味がする?」


 ウィノナは、普通に会話をするように被験者にたずねる。


「……懐かしい……ヨーグルトの酸っぱさ……ケチャップといっしょになって……とても美味しい……」


 被験者はまるで何かを食べているかのように、口を動かしながら小さく笑う。


「他のものも食べたら? 自由に食べていいわよ」


 被験者の目に映っているものを確認するため、ウィノナはさらに質問を続ける。


「……他には……何もない……あるのはブラニだけ……でも……満足だ……」


「電流を二ミリアンペアから少しずつ上げてみて」


 ウィノナは、研究員に電流の大きさを変えるよう指示する。

 しばらくすると、被験者の顔から笑みが消える。同時に「ぺっぺっ」と何かを吐き出すような仕草を始めた。ほおから耳の後ろを伝ってよだれがダラダラと流れ落ちる。


「何かあった? ブラニはどうなった?」


「……ブラニから……ウジ虫が……何百匹も……食べちまった……こんなもの……」


 被験者の身体がまるで痙攣けいれんしているように震えている。

 身体全体で恐怖を感じているのがわかる。


「エレンブルグ博士、電流を止めますか?」


「いいえ。そのまま出力をあげて。私がいいと言うまで続けて」


 心配そうに声を掛ける研究員に躊躇ちゅうちょなく指示をするウィノナ。感情の欠片も感じられない、氷のような瞳で被験者を凝視する。

 被験者の痙攣けいれんは次第に激しさを増し、それに比例するように声も大きくなっていく。


「どうしたの? 何かあった?」


「……ウジ虫が……身体を……俺の身体を……食ってる……助けて……」


 目を大きく見開き、首をガクガクさせながら被験者は気がふれたように叫び続ける。しばらくすると、話し掛けても会話が成り立たなくなる。


「現在の電流の大きさは?」


「一アンぺアです」


「生体電流の千倍……このあたりが精神の限界ってことね。快と不快の境界はおそらく五百ミリアンペアあたり……いいわ。電流を二ミリアンペアに戻して」


 眉毛一つ動かさず、ウィノナは冷やかな眼差しで指示をする。

 研究員は、言われたとおり電流の目盛りを二ミリアンペアに合わせる。しかし、被験者の様子は変わらなかった。


「……ブラニを……どけてくれ……食われる……助け……」


 それが被験者から聞き取れた最後の言葉。その後はひたすら奇声を上げるだけだった。

 まるで悪魔にでも取り憑かれたかのように、被験者の身体が痙攣けいれんしながら激しく上下する様に、研究者たちは恐怖を覚える。

 ウィノナは、手術用の半透明の手袋を外して、棒立ちになった研究員の手からノートとボールペンを取り上げた。


「同じ二ミリアンペアの状態を作り上げても、一度トラウマに陥ると『快』だったものは『不快』に変わる。薬が毒になったということ――」


 被験者の奇声と手術台がきしむ音が響き渡る中、ウィノナは現在の状況を口にしながらペンを走らせる。

 研究者たちは、そんなウィノナの態度にある種の恐怖を抱く。彼らは思った。「ウィノナは氷の女王リョート・ダーマの名が示す通りの女。感情を持たない人形だ」と。


 ウィノナは自分が周りにどう思われているかを認識していた。いや、あえて振舞った。

 なぜなら、人体実験の様子は、実験室に設置された四台のカメラにより一部始終が監視されているから。


 一見すると、ウィノナが超人計画に積極的に協力しているように見える。しかし、計画に全く進展が見られないことで、彼女の態度が反逆的なものと捉えられれば、何らかの処分を科される。それゆえ、亀の歩みほどであっても「計画が前進していること」を示す必要があった。


 すべては、いつかたくさんの人の命を救うため――ウィノナが掲げた、崇高な目的のためだった。



 つづく

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