第22話 待望の瞬間


 医学部の教育課程は六年制を基本としている。


 一年次には、他の学部同様、人文科学・社会科学・自然科学・外国語といった基礎教養科目を幅広く学習するとともに、研究室での研究手法の学習、医療機関でのボランティア実習、生命科学についてのディスカッションなどを通して医学の基本を学び、将来専門的な学習を行ううえでのいしずえを形成する。


 二年次には、本格的な医学教育が始まり、解剖学、生理学、病理学といった、伝統的な分野において、人体を構成する、分子や細胞の構造・機能などを横断的に学習するとともに、それぞれの臓器の機能と病理をさらに深く学習する。


 三年次からは、海外の大学・研究機関への留学や指導者がマンツーマンでの教育を行うなど、それぞれの専門分野における知見・技術を深め、五年次・六年次には、総合病院の複数の部門における臨床実習、移植医療・再生医療といった先端医療の臨床体験などを通して、臨床の実務を学び、医師・医学研究者として従事するためのノウハウを修得する。


 冬夜がK大医学部に入学して一年九ヶ月が過ぎた。


 医学部入学後、冬夜は教養科目中心の授業に飽き足らず、日々医学関連の論文や専門誌に目を通し、特に、循環器系については、英語で書かれたものも含め貪欲に読み漁った。

 さらに、大学側に依頼し、本来二年次後半から行われる解剖の現場や臓器移植に関する専門ゼミへの立ち会いを許可してもらった。

 その甲斐あってか、二回生の十二月には、循環器系に関する知識をそれなりに習得し、自ら治療法を研究・考察することが可能なレベルに達していた。


 しかし、現実が見えたことで、冬夜の希望は焦りへと変わっていく。


 心臓疾患に関する治療方法として、人工心臓やiPS細胞の活用など、世界中の著名な研究施設で研究は継続的に行われている。

 しかし、最新の情報を見る限り、実用化の目途は全く立っていない。実際、人を使った実験もほとんど行われておらず、安全性が担保されていない状況にあり、過去の研究成果を見ても進捗度合いはかなり緩やかだった。


★★


 年が明けた二月のある日、医学部創立百周年を記念した特別講演会が開催された。

 講演者は、心臓移植の世界的権威である、アメリカ国立衛生研究所NIH上級研究員シニアフェローで、C大学メディカル・スクールの客員教授を務める「トミー・クリストファー・ブライトマン」。

 医学部長が若かりし頃、アメリカへ留学したとき、ともに医学を学んだ仲であり、現在も懇意にしていることで今回の特別講演が実現した。


 ブライトマンが来日するのを聞いたとき、冬夜は目を輝かせた。「ブライトマンであれば、公にされていない、心臓疾患に関する治療法を知っているのではないか?」。「ブライトマンは現在進行形で新たな治療法への研究を進めているのではないか?」 冬夜はブライトマンが春日を救うすべを示してくれることに大きな期待を抱いた。


 特別講演は三部構成。

 第一部は午前中。医学部長以下教授や準教授とのディスカッション。

 第二部は午後。講堂に聴講希望者を集めての講演会。

 そして、第三部は夕方。カフェテリアでの学生を交えての懇親会。


 冬夜は医学部長に、自分がブライトマンに質問する場を設けてもらうよう依頼する。

 冬夜を広告塔として利用する大学としてもそれは願ったり叶ったりで、希望はすんなりと受け入れられた。


 講演は盛況のうちに幕を閉じ、予定通り懇親会が始まる。

 世界的なビッグネームの来日ということで予想以上の人が集まり、立食形式で三百人の収容が可能なカフェテリアは、すぐに満員の状態となった。

 壁際のテーブルでオレンジジュースのグラスを手にする冬夜。一刻も早く声が掛ることを期待しながら、医学部長とブライトマンのいるテーブルに視線を向ける。


「よぉ、冬夜。やっぱりいたな」


 ざわざわとした雰囲気の中、一際通る声が聞こえた。

 声の主は、入学式以来のスーツに身を包んだ大河内健吾。奇抜なヘアスタイルは相変わらずで、スーツとの組み合わせは最悪と言っても過言ではない。


 普通の人であれば、法学部の学生である健吾がこの場にいることをいぶかしく思っただろう。しかし、健吾のことをよく知る冬夜には何ら違和感はなかった。いつものごとく、将来のブレイン予備軍を探しに来たと考えて間違いない。


「はじめまして。姫野冬夜さん。お会いできて光栄です。噂はかねがね伺っています」


 少しぎこちない日本語とともに、健吾の陰から一人の男が現れる。

 彫りの深い顔に大きな目と高い鼻。日本人離れした雰囲気が漂っている。


「彼の名前はミハエル――『京極きょうごく・ミハエル・カガロフスキー』。親父さんがロシア人でお袋さんが日本人。ロシアからの留学生でお前と同じ医学部の学生だ。と言っても、ミハエルは六回生だから面識はないよな? 今日の俺はミハエルの付き人ってとこだ」


 健吾は二つのグラスにビールをなみなみといで、そのうちの一つをミハエルに渡した。


「ミハエルは、もともと祖父じいさんが医者で、その教えで医者になることになったらしい。卒業後は、国に帰ってモスクワの大学病院に務める予定だ」


 健吾はコップのビールを一気に飲み乾して、ビール瓶に手を伸ばす。隣りでは、ミハエルが同じように空のコップに二杯目のビールをいでいる。


 訊いてもいないことを丁寧に説明するのは、健吾のいつものことで、冬夜はよくわかっている。ただ、新たにわかったことがある。

 それは、健吾が酒豪であること。まるで水でも飲むようにビールを喉に流し込んでいる。飲み始めて十分も経っていないのに、すでに五、六杯は飲んでいる。もう少し言えば、隣りのミハエルも健吾と同じペースで飲んでいる。「この二人は何をしに来たんだ?」。心の中で冬夜はポツリと呟いた。


★★★


「冬夜君、ちょっといいかね?」


 医学部長が冬夜の名前を呼ぶのが聞こえた。

 隣りでは、ブライトマンがこちらを見て驚いたような顔でしきりに首を縦に振っている。「たぶん自分のことが話題になっているのだろう」。冬夜はそんなことを思いながら、足早に二人のもとへ向かう。


「君が噂の天才少年ジーニアスボーイだね? 話は大造だいぞうから聞いている。会えてうれしいよ」


 ブライトマンは、医学部長――小森こもり大造だいぞうの方をチラリと見る。そして、にこやかに冬夜へ右手を差し出す。


「姫野冬夜です。お会いできて光栄です。ブライトマン博士」


 流暢りゅうちょうな英語で挨拶をしながら、冬夜はブライトマンの右手を握ると、その手を食い入るように見つめた。


『この手が何人もの患者の命を救ってきた「神の手ゴッドハンド」。この人なら、きっと春日の命を救ってくれる』


「どうかしたかい? 僕の手に何か付いてる?」


 ブライトマンの言葉に冬夜はハッと我に返る。ゆっくり手を放して恥ずかしそうに会釈をする。


「すみません。この手が難易度の高い手術をいくつもこなし、たくさんの命を救ってきたのだと思って、感慨にふけっていました」


「それは光栄だね。ただ、冬夜君は一つ重大な勘違いをしている」


 ブライトマンが右手の人差し指を立てる。

 すると、それが何かの合図であるかのように、顔から笑みが消える。

 冬夜はゴクリと息を飲んだ。


「実はね……僕は左利きなんだ。だから、命を救ってきたのはだ」


 ブライトマンの顔に笑みが戻る。自分の左手を顔の横に掲げると、童謡「むすんでひらいて」のメロディーを口ずさみながら、閉じたり開いたりを繰り返す。


「相変わらずだな。トミー」


 医学部長が目尻を下げながら声を上げて笑う。周りで話を聞いていた教授たちも釣られたように笑顔を見せる。

 ブライトマンの話術で場の雰囲気が和やかなものへと変わった。


「冬夜君は僕に訊きたいことがあるらしいね」


 不意にブライトマンが冬夜に話し掛ける。

 医学部長に目をやると「どうぞ」と言うように小さく頷く。

 冬夜は珍しく緊張した様子で小さく深呼吸をすると、真剣な眼差しをブライトマンへ向けた。


「ブライトマン博士、教えてください。『心臓移植をほどこさない限り助からない』と宣告された患者を、移植以外の方法で救う手立てを」



 つづく

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