第19話 疾風(かぜ)立ちぬ
★
「『面白くなってきた』って、どういう意味ですか?」
言葉の意味が理解できない温人は、柿崎の顔を
「ふむ。これから春日は剣術の模擬試合を行う。相手は高校二年の男子で初段。体格差もかなりある。普通に考えれば、勝負は目に見えている。しかし、あの
どこかうれしそうな顔をする柿崎を
「柿崎さん、高校生の男子、しかも有段者なんかと試合をして大丈夫なんですか? だって、春日さんは心臓が――」
「――もちろん大丈夫だ」
心配そうな、温人の言葉を否定するように、柿崎が言葉を
「春日の身体のことは春日が一番よくわかっている。だから、考えて戦うはず。これまでもちょっかいを出す奴にはそんな戦い方をしてきた。そうすることで、自分にちょっかいを出しても無駄だということを思い知らせてきた。
私としても温人くんにはぜひ模擬試合を見て欲しい。そうすれば、春日のことがもっと理解できるはずだ」
柿崎はフッと笑うと、精神統一を終えて準備運動をしている春日の方へ視線を向けた。
「それから、試合に使うのは、
柿崎は春日のそばに歩み寄ってコンディションを確認する。
春日は鋭い眼差しを柿崎へ向けて小さく頷く。「問題ない」という意思表示だ。
温人が春日のニックネームの由来を
しかし、その一言をきっかけに、春日は温人に自分のことをもっと知ってもらおうと考えた。きっかけは何でも良かった。温人には何でも知っておいて欲しかった。
そんな春日の思いを、温人は理解していたわけではない。
ただ、春日が良いところを見せようと張り切っていると聞いて、とてもうれしく思った。
「しっかり見せてもらうよ。疾風の春日さん」
優しい眼差しを向けながら、温人はポツリと呟いた。
★★
道場の中央に模擬試合を行う二人と審判役の柿崎が現れる。
一辺六メートルの正方形の空間を囲むように、門下生と指導員が腰を下ろしている。道場の中央を試合場にしたのは、門下生全員がこの試合に興味を抱いているからに他ならない。
「今更だが、もともと剣術の試合は真剣による殺し合いだ。相手に
今回は軽量木刀を使うが、それでも当たりどころが悪ければ怪我をする。急所への攻撃は禁じているが、それ以外の場所も危険な場合がある。
そこで、審判である私が二人の太刀筋を見て『勝負あった』と感じたら、試合を止める。後で『どうして止めた?』などと文句を言わないように。試合時間は最大で二分。わかったか?」
柿崎が春日と男子の顔を交互に見る。真剣な面持ちの二人から「はい」という声が発せられた。
「では、立ち位置へ」
二人は左右に分かれて約三メートルの距離を取る。その間には、審判用の黄色い木刀を手にした柿崎が立つ。
あたりは水を打ったように静まり返り、ピリピリとした雰囲気が漂う。
春日は乾いた唇にペロリと舌を
一方、相手の男子は木刀の先を真っ直ぐに春日の顔に向けるスタンダードな構え。もともと身体が一回り大きな相手が上から見下ろしていることで、身体を沈めて脇構えをとる春日が余計に小さく見える。
さらに、男子がいつでも仕掛けられるのに対し、春日はまだ刀を抜いていない状態。百メートル走で言えば、スタートで後手を踏んだようなもの。一手遅れることで不利があることは否めない。
温人の顔から笑みが消える。両手をぐっと握りしめて、無事に試合が終わることを祈った。
「はじめ!」
柿崎の口から、その日一番の大きな声が発せられた。
一瞬間が空いて男子が動く。無防備となった春日の右側に回り込むと、自らを鼓舞するような奇声をあげて木刀を振り下ろす。春日はまだ木刀を腰に差したままだった。
『春日さん!』
温人の口から声が出そうになった、そのときだった。
風が吹いた――「疾風」と呼ぶにふさわしい風が。
春日は襲い掛かる太刀を紙一重で
その動きが見えたのは柿崎を含めた数人だけ。相手にもそれは全く見えなかった。
「勝負あり! そこまで!」
発せられたのは、温人ではなく柿崎の声。同時に、木刀が床に落ちる「カラーン」という音があたりに響き渡った。
真っ直ぐに伸びる春日の木刀を、柿崎の黄色の木刀がピタリと制している。
相手は狐につままれたような顔で、自分に付きつけられた木刀と
温人にも春日の動きは見えなかった。疾風の春日というネーミングは伊達ではないと思った。
周りを囲んだ門下生から起きたのは、拍手ではなくどよめき。誰もが温人と同じことを思っていた。
★★★
「温人、あたしの『春日流抜刀術』。結構イケてただろ?」
挨拶を終えた春日は温人の元へ駆け寄ると、得意げな表情を見せる。
「勝手に名前を付けるんじゃない。それは、私が教えた
間髪を容れず、春日の背後から現われた毛むくじゃらの太い腕が、彼女の頭を
「い、いいじゃないかよ! 少しはあたしのアレンジが入ってるんだから!」
「春日流を名乗るのは百年早い。将来道場を立ち上げてからにしろ。ただし、お前の道場に入門する、物好きがいたらの話だ」
冗談とも本気ともつかない言葉を残して、柿崎は春日に背を向けると、手をパンパンと叩いて門下生に練習の再開を促す。
「相変わらず厳しいよな。うちの師匠は」
春日は唇を
「それで? どうだった? あたしの試合」
春日は自分の顔を温人の方にぐっと近づける。
その瞬間、試合の様子を思い出したのか、温人の顔が驚きと歓喜がいっしょになったものへと変わる。
「すごかった! 本当にすごかったよ!」
「すごいだけじゃわからないだろ。もう少し具体的な感想はないのかよ?」
「すご過ぎて言葉が見つからないんだ! 春日さんの動きが見えなかった! 本当に『疾風の春日』だった!」
温人は無邪気な笑顔を浮かべて興奮気味に話す。まるで、遊園地に連れて行ってもらった子供が、そのときのことを得意気に話すように。
春日は少し照れたような笑みを浮かべる。視線を胸のあたりに落として、乱れた胴衣を整える仕草をする。
「そうだ……身体の方は大丈夫なの? そっちの方が気になって仕方がなかったんだ」
不意に、温人の口から春日の身体を気遣う言葉が発せられる。
春日は笑みを浮かべてゆっくり顔を上げた。
「聞こえなかっただろ?」
「えっ……? 聞こえない?」
春日の唐突な一言に、温人は思わず訊き返す。
「あたしの
温人は
おそらく春日自身も大丈夫だと思っていたのだろう。試合のことも身体のことも。
「お前が見てたしな」
「僕……? 僕が見てると大丈夫なの?」
不思議そうに尋ねる温人に、春日は開いた口を右手で押さえて「しまった」という顔をする。
「い、いや、深い意味はない! お前が見てたから不安じゃなかったなんて意味じゃない……! こ、この話は終わりだ! 着替えて来るから待ってろ!」
春日は温人に背を向けると、足早にその場を後にする。
言葉の意味がよく理解できない温人だったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
疾風の春日は、とても強く、とてもカッコ良かった。いや、それだけではない。戦いを終えた春日からは、とても優しい雰囲気が伝わってきた。
温人は改めて思った。春日は絶対に病気を克服してくれると。そのためなら自分はどんな協力も惜しまないと。
二人の距離がまた少し縮まった。
つづく(第3部へ)
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