小さな約束




 圭人は、いろはの部屋のドアノブをそっと掴んで、回す。

 ……できるだけ、音のしないように、ゆっくりと、ゆっくりと。


 開ける直前に、そういえばノックをするべきだっただろうかと思い迷うが、いろはは今眠っているそうなので、物音で起こすのもよろしくないだろうと、ここは静かな入室を試みることにする。


「……入るぞ」

 それでも、それでも一応は女性の部屋だ。最低限のマナーとして、ごく小さな声で、自らの入室を告げる。

 いろはの部屋は――一年前のあの日と変わらず、ピンクの薔薇のつぼみ模様の壁紙で、すずらんの花の様な形の照明が下がっており、アール・ヌーヴォー様式の家具が置かれていた。が、あの日とは決定的に違うものが――ある。

 それは、この部屋には確かに生きている人間が住んでいる、という空気の温かさだ。


 

「いろは」

 部屋にあるカーテン付きの大きなベッドは、光を通すようにつくられた薄布のカーテンだけが閉められた状態だった。

 その薄布のカーテンをそっと動かし開けると、彼女はたしかにそこで眠っていた。思っていたよりも……ずっとずっと安らかな寝息を立てて。


「……」

 そんな彼女を見て、なんだか……ほっとしてしまった。安堵したというより、ほっとした、という言葉がこの気持ちにはふさわしく感じられた。


 とりあえず、ベッドのそばに適当な椅子を持ってきて、腰掛ける。

 ベッドサイドにはタオルと水の入った洗面器。

 いろはのおでこには、濡れたタオルが置かれていた。

 そのタオルの温度がぬるいことを確かめて、圭人はいろはのタオルを新しいものに変える。洗面器の水も少しぬるかったので、魔力をごく抑えた低級の氷の魔法を行使し、水の温度もいくらか下げた。

 いろはのおでこに触れた時、ごく小さな声で呪文を唱えた。

 ――圭人の指先に、ごく淡い優しい色をした癒やしの光が灯る。この光は、体の痛みを和らげる魔法だ。

 彼女の安定した容態を見て、不要とも思えたのだが、圭人がそうしたかったのだ。胡蝶に言わせれば――これがいわゆるところの自己満足、というなのやつだろう。



 しばらく、圭人は癒しの光を灯し続けた。

 時折、外で小鳥の啼き声がする以外は、とても静かなものだった。メイドたちも入室してこない。


 ――部屋の窓からかなり近くで、何度目かの鳥の啼き声がした。


「ん……」


 その鳥の声が聞こえたのか、いろはがまぶたを動かす。

 圭人は……ここでそっと部屋を出て、あとを胡蝶に任せるべきかとも思ったが、そうしなかった。そうしたくはなかった。いろはにちゃんと言わねばならないと思ったから。


「ん……ん…………うん?」

「……おはよう、いろは」


 そう圭人が声をかけると、いろはの寝ぼけ眼が一瞬にしてぱっちり開いた。


「圭人……その、どうして、ここに」

「ここは俺の屋敷だ。……どこに居ても、俺の勝手だろう」

「そう……だよね……」


 そして、いろはは少しだけ、西洋風の寝間着に包まれた体を起こそうとする。

「いろは、まだ起きるのは」

「……圭人、ごめんね……ごめんね」

「……いろは、なぜ謝る、何を謝る」


「圭人に心配をかけてしまって、ごめんなさい」

 まさか、謝られるとは思っていなかった。

 謝るのは……無茶をさせた自分の方だ。

「……謝るのは、俺の方だ。……すまない、いろは。お前の負担も考えず、考えようともせず、無茶をさせてしまった」

 そう言って、圭人は……紫乃宮侯爵家の三男であり、紫乃宮伯爵家の当主は、椅子に腰掛けたままではあるが、深々と頭を下げた。

「……圭人、あのね。圭人はそんなに簡単に頭を下げていい人じゃないって、私もこの一年でそれなりにわかってるの。だから、だから……そんなことは、しないで……ねぇ……ねぇ……そんなことより、いつもみたいに、どっかに遊びに連れて行ってよ。デパートで迷子になったり、フルーツパーラーでアイス食べたり、山に行ってお弁当食べたりしたいよ……また、どこか一緒に、遊びに行こう? ……それで、それで、私は平気、なんだから」

「……わかった、いろはがちゃんと元気になったら……どこかに出かけようか」

 いろはは……熱で苦しいだろうに、大きな瞳をぱあぁっと輝かせた。

「いいの? ……本当に、本当に良いの……?」

「あぁ、どこに出かけたいんだ?」


「えっとね、海! 圭人の車で、海に行きたい!!」

「……なるほど、海か。去年は行かなかったな」

 

 桜都は『その昔』に海を埋め立てて作られたような都市なので、海が近い。

 車を少し走らせれば、いわゆるマリンスポーツや船遊びに向いている海はいくらでもある。


「あぁ、いいぞ。でも海に行くなら夏のほうが良いだろうな。今はまだ――海の風が冷たすぎるだろう」

「そっか、じゃあ夏に、だね……」

「あぁ」

 いろはは、にへらっと笑って、それから口元を毛布で隠す。

「約束だね」

「……あぁ、約束だ」

「約束、だよ。……楽しみだなぁ……私の生まれた街は、海、なかったから……私、海を見たことが無くて」

 圭人は少し大袈裟な仕草で、それは大変だ、と示す。

「それはいかんな、和桜国は海の恵みに満たされた国でもあるのだから――和桜国人として、海は見ておいたほうがいい」



「そうだよね……。うん……えへへ、圭人と海、楽しみ……頑張って、風邪、治す。頑張るね……」

「あぁ、俺も……その、楽しみにしておくからな」



 またひとつ、鳥の啼き声がする。

 そんな――静かな夕暮れどきに、二人は小さな約束を交わしたのだった。





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