鍵付きの日記帳
それは、じめじめした空気が気になる梅雨時の日のこと。
「そういえば圭人、例の……えぇと……小娘ちゃんの様子はどうだい? ちっとばかしぐらいはレディになってきてるのかい?」
「おい、皮肉か優太。それは皮肉なのか。レディどころか、まず普通の娘らしくさせることにも苦心しているところだよ」
小娘こと、いろはの家庭教師を充分な人数手配できたのが、つい先日。
勉強の進み具合でいえば、ひらがなとカタカナを覚えさせて、ようやく漢字を習える段階までこぎつけたところにすぎない。先は長い。
いろはは勉強はそれなりに真面目に取り組むのだが、庭を駆け回って遊んだり、使用人と話をしようとしたり、レディというよりそこらのやんちゃな庶民の娘だった。
……実際、筋金いりの庶民階級の娘なのだから、これは仕方がないともいえるかも知れないが。
「やー、だってなー、女王陛下も気にかけておいでだぞ。まぁ……国の予算をさいてるってこともあるしな」
「……元はといえば……元はと言えば……女王陛下が勢いであのようなことを命じなければ……いや、言ってもしょうがないことはわかっているのだが」
「おーっほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ!! レディは一日にしてならず、なのでしてよ!! ごきげんよう紅瀬波様!! お菓子のおすそ分けにまいりましたわ、主席様!!」
「おーおー、相変わらず気合はいってんなー」
「……真希子、もっと静かに入ってこれんのかお前は」
勢い良く、圭人の執務室の扉を開けて入ってきたのは、他でもない神衣真希子だった。というか、圭人としては真希子以外にこんな登場をする者がいてほしくなかった。
部下が桜都で買ってきたのだという菓子を、一包みずつ圭人と優太に手渡してから、真希子はこう尋ねてくる。
「例のお嬢さん、文字は書けるようになりましたの?」
「進捗はよろしくない。ようやくひらがなとカタカナを覚えて、簡単な漢字ぐらいは書けるようになったところだ。だがまぁ、なかなか味のある文字を書くぞ、あいつは」
そう応えると、真希子はふむ、と考え込んだ。
何かいい案でもあるのだろうか?
「それでしたら、日記帳をプレゼントしてはいかが? 文字の上達には、やはり書き物をするのが一番でしてよ」
「……日記? ノートなら何冊でもあるが……」
それを聞いて、真希子は首を横に振る。ノートのどこがよろしくないのか、圭人にはさっぱりわからない。
「きちんとした専用の日記帳――それも、年頃の女の子なのですから鍵がついているものだと、本人も安心していろいろ書けるようになるはずですわ」
「そう、なのか? むぅ……そういうものかねぇ……」
「俺も女子供のことはよくわからんが、そういうものなのか」
圭人と優太はそう言って、女性というものの神秘の深淵を改めて思い知った。
その日、圭人は仕事を早めに終わらせて、まっすぐに貴族街の紫乃宮伯爵邸には帰らずに、街に車を走らせた。
百貨店に向かうことも考えたが、先日と同じ轍を踏むのは避けたかったので、新しくできた大きな文具店に向かうことにする。
目的のものはすぐ見つかった。
鍵付きの日記帳――とはいうものの、鍵は“解錠”の魔法などを使うまでもなく、ヘアピンかなにかで押しただけで開くのではないだろうかというちゃちな作りだ。それでも、鍵があるという安心感が、必要な年頃なのだろう。そのあたりを真希子に指摘されるまで配慮できなかったことを軽く後悔する。
せっかくだからということで、鍵付き日記帳は綺麗に包装してもらった。
「おかえりなさい、圭人! 今日はお仕事早く終わったの?」
いつものように出迎えたいろはは、先日百貨店で誂えた単衣の着物姿だった。白地に、あじさいの青と紫が映えて美しい。
「あぁ、まぁな。いろは、今日は土産があるんだ」
そういって、綺麗な紙で包まれた箱を差し出すと、いろはは受け取って一切躊躇なく、その場で開けた。
「……これ、なぁに? ……なにかの本?」
「これは日記帳だ。年頃の娘にはこういうのも必要だと聞いてな。仕事が早くおわったから買ってきたんだ」
「日記帳……」
いろはは日記帳をまじまじと眺めていた。
「これに、今日あった出来事なんかを書いていけばいい。文字の練習にもなる、ページが無くなったらすぐ言え。また買ってきてやるから」
「うん……わかった。いっぱい、いっぱい書くね。書いて、圭人に読んで聞かせてあげる」
「……は?」
「え?」
「……いろは、この日記帳に書いたことは、お前だけの内緒にしていいんだぞ。俺に報告することはない。それが日記帳というものだ」
そう言っても、いろははなおも不思議そうな顔をしていた。
「えっと、日記って……書いて、ご本にするものじゃないの? これ、こんなに立派なのに、本当に、ただ書くための、
「あぁ……うん、そうだ。日々あったことを――日記を書くためのノートだぞ」
「すごい!!」
いろはは、目をきらきらさせて、鍵付きの日記帳を抱きしめた。
「そんなこと専用のための
……どうやら、とりあえずは日記帳というものを理解したらしい。
「すごいね、この日記帳って! 私いっぱい、いっぱい、いっぱい書くね!!」
「あぁ、いっぱい書いていけ」
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