苦い雫




 いろはへの拍手が鳴り止まないうちに、一人の若者が彼女の前に進み出た。

 圭人はもちろん知っている顔――翔太だ。

 いろはよりもさらに年若い少年である彼だが、その表情は――覚悟を決めた男のそれと言えるものだった。

「いろは嬢、僕と踊っていただけますか」

「えぇ、喜んで。紅瀬波翔太様」


 曲がはじまると、二人は微笑み合い、手を取り、踊り始める。

 弾けるような若さを持った男女のダンスは、圭人が見ても明らかに華がある。



 ――まぁ……まぁ……まるでお人形さんたちが踊っているかのよう。

 

 ――実に、お似合いのカップルではありませんか。

 

 ――えぇ、まさに新しい時代を感じますわね。

 

 ――紅瀬波家の令息は――やはり、いろは嬢と?


 

 紳士淑女がひそひそとそんなことを囁く。

 ……それらを圭人に直接言ってこないのは、それだけ宮廷魔術師主席という存在が恐れられているからだ。


 いろはと翔太のダンスを眺めながら、圭人は自分の奥歯を今にも崩れ潰れそうなほどに強く噛み締めていた。


 あの子は、おとなになった。

 あの子は、美しくなった。

 あの子は、レディになった――

 

 そして

 

 自分はあの子を、愛している。



 いつしか視界が少しずつ滲んできた――涙だ。圭人の瞳には涙が浮かんでいた。

 誰からも恐れられる宮廷魔術師主席というのはいいものだ。誰も顔を見ようとしないから、誰にも泣いていることを知られずに済む。


 曲が終わる。 

 圭人はいろはのもとへ行こうとするが――その前に、何人もの紳士たちが彼女を囲んでダンスの申込みをはじめた。

 あれは緑河侯爵の次男、あっちは羽鳥子爵、そっちにいるのは渡里伯爵、あちらに居るのは、奥方を亡くしたばかりの白雪侯爵ではないか――

 

 ぎりぎりと、右手を握りしめる。手袋をしていなかったら、今頃は血が流れていたかもしれない。圭人は、そうしてやり場のない感情を抑えていた。


 また曲が流れる。

 また次の曲が流れる。


 

「ごきげんよう、紫乃宮伯爵――善き夜ですね」


 唐突に圭人にかけられたのは、男とも女ともつかない声。

「……お前」

 それは……若く美しい貴公子、というのが適切だった。

 細身の体に最新流行の夜会服、胸には白い花、長い髪は首の後ろで結ってさらりと流している。


 その手首の精霊銀の輝きを見るまでもない――神衣詩乃だ。


「あぁ――この格好ですか。さすがに紅瀬波侯爵家の舞踏会に参加ということで、今宵はこの姿で。一曲目を申し込みたかったのに、ずっとご令嬢たちに取り囲まれていて、ようやく逃げ出してこれたところなのですよ」

 そう言ってにこりと微笑む彼は、華やかな振り袖が似合っていた詩乃とは同一人物とは思えぬほどに――『男』だった。

「ぼくは、いろは嬢にダンスを申し込むためにこの舞踏会に来たのです」

「詩乃、お前」


「……あなたを超えてみせます、紫乃宮伯爵」





 詩乃のダンスの申込みを、いろはは嬉しそうに受けた。

 ダンスホールは、話題のレディと謎の麗しい貴公子のダンスに目を奪われている。

 

 圭人はそれを見ていられなくて、ウェイターからなるべく強そうな酒を受け取って一気に飲み干す。

 ……苦い。

 酒とは、こんなに苦いものだっただろうか。


 ――そういえば、いろはが屋敷に来て以来、酒は飲んでいなかった。


「よう」

 二杯目を取りにいくかどうか迷っているところで、また声がかけられた。

 今度は優太だ。相変わらずの体の大きな洋犬のような雰囲気は、少しだけだが圭人を安心させてくれた。

「飲んでるのか」

「まぁな」

 優太はウェイターからもうすこし軽めの酒を受け取って、一口飲む。


「そういえば、あの子はどこに嫁がせるんだ?」

「……は?」

「嫁ぎ先だよ、嫁ぎ先。結婚でもして貴族籍に入らないと、あの子は陛下に謁見できないだろうが。もともと女王陛下に謁見できるようなレディに、ということだったしな」


 ……岩石の魔法で頭を殴られたかのような、衝撃。


「若くて見目が整ってて、教育が行き届いていて、勝手に金を稼いできて、しかも上手く行けば女王陛下とのつながりにもなる子なんだ。欲しがる貴族はいくらでもいるだろうさ。嫁ぎ先は慎重に選ばないとな。まぁ、迷ったらうちに寄越せばいい。翔太はあの子のことを随分気に入っているようだから……」


 頭の中身が、ぐるぐるする。

 優太の言葉が、ぐるぐるまわる。


 あの子が、貴族たちによる主導権の奪い合いの遊戯ゲームの駒にされている。

 あの、子が。


「……すまん、ちょっと外の空気を吸ってくる」


 圭人は、その言葉をようやく絞り出してその場を立ち去った。




 

 勝手知ったる紅瀬波侯爵邸の庭。圭人なら、建物からの明かりだけでも充分歩くことができた。

 ひらりと、風とともに花びら……いや、これは。

「ん…………雪か」

 冬の殺風景な庭に、ゆっくりと氷の花びらが舞い落ちてくる。

 圭人は、ぼんやりと空を見上げた。


「俺がこのような体たらくでは……また胡蝶に叱られそうだな……」

 

 雪の花びら、くるくる、散って、まわって、舞って――

 まるで、あの日のような――あの全てが始まった日の桜の花びらを思わせる、白い花びら。

 くるくる

 ひらひら

 はらりはらり


 見上げる圭人の眼鏡のレンズに雪がひとひらおちて、ゆっくり溶けていく。

 それはまるで、涙のあとのようにも思えて。


 俺は……。

 せめて――あの子の幸せを考えてやろう。


 あの子が想う相手と一緒になれるようにしよう。

 あの子の家族として、あの子にしてやれることをしよう。

 あの子が――あの子が――幸せなら――――もう……それでいい。

 

 圭人は、ゆっくりと息を吐く。

 吐息は冬の冷たい空気を、わずかに白く濁らせてやがて掻き消えた。

 それをぼんやり眺め終わってから、紅瀬波邸に向かって歩く。


 ……あの酒はまだあるだろうか。

 あの苦い雫を無性に飲み干したくて仕方がなかった。





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