そして、おわりのはなし

樹乃花姫




 大晶七年、春の初めごろ


 宮廷魔術師主席・紫乃宮圭人伯爵に桜宮からの緊急の呼び出し。

 いったい何事かと思いつつ、圭人はいつもの位置に車を停める。

 周囲を見回すと、桜宮に仕える桜専門の樹木医――桜守さくらもりたちが桜の手入れにあたっていた。

 どうやら、桜のつぼみの様子を見ているらしい。

 あと数日もしないうちに桜は開花するだろう――


 

 今日、圭人を呼び出したのは女王陛下だ。

 となると執務室である『葉桜の間』に向かえばいいだろうか。

 そう思って女王陛下の執務室がある一角に足を向けると――そこで待っていたのは、圭人の友人でもある紅瀬波優太だ。勝手知ったる顔とばかりに、圭人はいつもの調子で話しかけようとしたのだが、

「宮廷魔術師主席・紫乃宮圭人伯爵。女王陛下はそれはお待ちかねです。今より『冬枝桜の間』に案内いたします」

 ……優太が、あくまで女王陛下の近衛隊長としての対応を見せた。

 女王陛下が、呼んでいる。

 それも、執務室のある『葉桜の間』ではなく、『冬枝桜の間』に呼ばれた。

 ……『冬枝桜の間』は女王の私室、プライベートスペースだ。

 普段は近衛の高位の者や、同じく高位の側仕えの女官たちぐらいしか立ち入れないことになっている。


 ……これはどういうことなのか


 圭人は疑問に思いながら初めて入る『冬枝桜の間』を、優太の後をついて歩く。

 背が高く歩幅の大きな優太は、油断しているとどんどん進んでいってしまうので、周囲を見回す余裕もない。


 やがて、一つの扉の前で、優太が歩みを止めた。

 その扉は――白く塗られた以外は取り立てて特徴のない洋風の一枚扉だが、ドアノブには繊細な桜の花の意匠が施されている。

「このお部屋で、女王陛下がお待ちです。――我々は、このドアノブには触れる権限を持たないため、紫乃宮伯爵自身で扉を開けてもらうことになります。……そして、もっとも大事なことがあります。この、部屋の中で起こったことを、口外しないこと……守れますか」

「……あぁ」

 優太は、いや、近衛隊長は――最後まで表情を崩さなかった。

「それならば……どうぞ、扉を……女王・樹乃花姫がお待ちかねです」



 ドアノブに手をかけると、きしむ音すら立てずに、それはそれはなめらかに、扉が開いた――


 部屋の中は洋風のつくりだった。

 それも、どちらかというと――むやみやたらに飾り立てずに、シンプルな美しさをもった部屋。

 この部屋が、和桜国の最高権力者とされる、女王・樹乃花姫の私室だと信じられない者もいるかもしれない。

 ……その部屋の、大きな窓の傍で、女王陛下は外を眺めていた。

 女王陛下は、和桜国の最高権力者にふさわしい美しい振り袖姿だった。桜の開花を控えたこの時期らしい、満開の桜を描いた豪華な柄。黒くなめらかな髪は、毛先だけをゆったりと結び、宝石の髪飾りをつけている。

 陛下がくるりと振り返ると、宝石の髪飾りも揺れる。

 

「圭人どの――お待ちしておりましたよ」

「女王陛下、紫乃宮圭人。ただいま、御前に」

 跪こうとすると、女王がそれを止める。

「……少し楽にしてくださいな。ここはわらわの私室。わらわだけの空間。……わらわだけしかおりませんよ」

「そう、言われましても……」

 ――紫乃宮圭人がこの若さで宮廷魔術師主席という地位に取り立てられたのも、当代の女王の格別のお引き立てがあったからこそ。

 そして、主席の地位にあるものが、ただの貴族の三男坊では具合が悪いだろうと、独立した伯爵家爵位の新設のときも、女王陛下が動いていたことを、圭人はよく知っている。

 当代の女王・樹乃花姫なくして、紫宮伯爵家はあり得なかったのだ。


「……それでは、お茶にでもいたしましょうか。貴方の好きな、ダージリンの紅茶でもどうかしら」

「女王陛下」

「……樹乃花姫、と――貴方には呼んでほしい。わらわにはもう、生まれたときの名前は無いのだから、せめて、その名前で……呼んでくださいな……」

 そして――『彼女』は圭人に向かって手を差し伸べる。


「紫乃宮圭人どの……わらわの夫となるつもりはありませんか? この和桜国で、わらわの隣に座って、桜配おうはい陛下と呼ばれるようになる、そんな未来を、考えてみてくださったことは、少しでもありませんか……?」

「……ございません」


 圭人の口から出たのは、自身でも驚くほどになめらかな拒否の言葉。

 ――今、自分が居なくなったら、あの子は、あの子は、あの子はどうなるのだ。


「そう、ですか……。圭人どの、ねぇ、貴方には、どなたか好いた女性がいらっしゃるのですか?」

 震える声の女王陛下など、圭人には初めての存在だ。

 わずか十二歳にして挑まれた即位の礼、それでも見事にやりとげて見せたのは、この少女王ではなかったのか?


「……おります……っ」


 それを聞いて、女王・樹乃花姫は、深く深く――ため息をついた。

「そうですか……ならばその女性を精一杯幸せにしておやりなさい。もう、下がってよろしい」

「陛下」

「……貴方には、貴方にだけは、それ以外の名で呼んでほしかった……のに……」


 しばらく樹乃花姫は、天井を見上げていた。それは、涙をこらえているのだと、圭人にはすぐにわかった。

 そして、ほんのすこしの時間のあと、――『彼女』は名前の通り、花のように儚く微笑んだ。


「あぁ。本当……なんでもできるはずなのに、不自由な身分ですわ、女王って」





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