色は匂えど散りぬるを
次の日、圭人が仕事から帰ってきて、夕食が終わる頃にはいろはの勉強の『お支度』はすっかり整っているようだった。
さすがは征十郎、手早い仕事だと、思いつつ、いろはの部屋に向かう。
だが、
「申し訳ありません、圭人様。殿方は只今この部屋に立ち入り禁止でございます」
今現在、圭人はいろはの部屋の前で、メイド長の胡蝶に足止めを食らう羽目になっている。
「……俺はこの屋敷の主なんだが……」
「それでも、圭人様が殿方である以上、部屋に入れるわけにはまいりません」
「……」
「そのようなお顔で睨んでも駄目でございますよ。なにせ――いろは様はお召し替え中なのですからね」
「お召し替え、だと?」
思わず鸚鵡返しになる。夕食の時、いろはは確かすっきりとしたデザインの赤いワンピース――もちろん真希子からのお下がりだ――を着ていたはずだ。
食事中に汚したわけでもないし、勉強のじゃまになるようなデザインでもない。
胡蝶は、首をひねっている圭人を見て、やや呆れ気味にため息をつきながらこう答えた。
「勉強の時には、勉強の時にふさわしき服装というものがございますでしょう?」
「あ、圭人!」
部屋の扉を開けて、ひょこっと顔を覗かせたのは、いろはだった。女学生のような袴姿の。
「いろは、その格好」
「あぁ、これは。胡蝶さんがレディになろうとする女の子が勉強するときは、この服装ですって言うものだから……似合う、かな?」
そういって、くるりとその場で一回転してみせる。
着物は可愛らしいピンクと白の矢羽根模様。袴はいわゆる海老茶色で、格好だけならいかにもそのあたりを自転車で駆け回っていそうなおてんばな女学生――海老茶式部というやつだ。
「あぁ、似合っているぞ」
そう言って圭人は、ピンクのリボンをカチューシャのように巻いてあるいろはの頭を撫でる。
「本当に、本当? ……やったぁ!」
無邪気に喜ぶ様は、レディというよりは……ただの子供のようだった。実際まだまだただの子供なのだが。
無事にいろはの部屋に入ることができた圭人は、中央にあるテーブルに手習いの道具一式と椅子を二脚用意させる。椅子のひとつは当然『生徒』であるいろは。もうひとつの椅子には圭人が座る。
「あれ、圭人?」
「俺が教師だ。文句はないだろうな」
「きょうし……それって、えーと……圭人が教えてくれる……ってこと?」
「そうだ。当分の間は、な」
「わ、わかった。お勉強……がんばる」
いろはが、ぎゅっと両こぶしを握った。気合は充分のようだ。
「とりあえず、最初の教材はこれがいいか。こんなものだろう」
圭人は幼い子供向けの手習いの教材から、一枚の紙を探し出し、それを机の上に広げた。
「……これは……なぁに?」
「和桜国の文字の一種だ。ひらがな、というやつだな。最初はこれからだ」
「うん……。あ、でも昨日、本を眺めたときには、もっと直線的なのとか、もっと複雑な文字? ……もあったけど」
「そういうところは覚えてるのか。それはおそらく、カタカナと漢字だろうな。もしかしたら異国語も部分的に混じっているかもしれんが」
「カタカナ、と……漢字……」
「和桜国には大きく分けて三つの文字がある。ひらがなとカタカナと、漢字だ。だが、まぁ、千年前の貴族でもないのだから、ひらがなから覚えるのがちょうどいいだろう」
そして、圭人は紙の上に指を滑らせる。
――と……『それ』を読み上げる直前に、あることに気づいた。だが、まさかこれを教材にするのはやめると、今更言えない。
「……とりあえず、一度読み上げるぞ。あとから復唱してみろ」
「うん!」
「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ――」
「……!!」
「うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑいもせす――」
「……」
「……いろは、復唱は?」
「……」
「いろは」
しかし、いろはは目をまんまるくして驚いた顔をしたままだった。返事すらない。繰り返し名前を呼ぶと、ようやく彼女は反応した。
「……すごい!! この文章、私の名前から始まってるんだ!!」
「まぁ、そういうことだ。これは『いろは歌』というもので――」
「ねぇねぇ、これは、誰がいつ作ったものなの?」
……いろはは復唱をまだしてないのに、質問をぶつけてくる。
だが、圭人としてもせっかくの好奇心の芽を踏み潰すような無粋な真似はしたくはなかった。
「これは、ずっと昔に作られた歌だな。詠み人は諸説あって不明だ。一説によれば、とある徳の高い僧がつくったとも言われるが――これは現在ではほぼありえないだろうとされている。それというのも、まず……」
いろはは目をきらきらさせて、圭人の説明を一言一句聞き逃すまいと熱心に聞いている。
おもったよりもちゃんとした生徒ぶりだと、心の中でいろはに花マルをつけてやりながら、圭人はいろは歌に関する知識を披露した。
知識の次は実践――というわけでもないが、いろはに三回ほど復唱させた後はテーブルの上に用意してあった習字道具の出番となった。
「まずは最初の行『いろはにほへと』から書いてみろ。この紙を手本にな」
「う、うん……」
筆の持ち方や墨の付け具合などをチェックやって、書き始めるように合図する。
「い……。ろ……。は……」
三文字かいたところで、いろはは一度手を止めて、圭人を見上げる。
「見てみて、圭人! 私の名前だ!! はじめて書いた!!」
「わかったわかった。早く続きも書け」
こんなに喜ぶなら、今度は苗字である『田原』の漢字も教えてやろうと思いつつ、つっけんどんに続きを書くように促す。
「うん! あのね圭人、あのね!!」
「なんだ」
「勉強って……楽しいね!!」
彼女のその一言で、今までの疲れが吹っ飛ぶ思いだった。
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