本と教育



「では、行ってくる。ちゃんと屋敷でいい子にして待つようにな」

「うん。行ってらっしゃい、圭人!」


 次の日、圭人は仕事のために出仕した。

 正直、いろはをレディ育成するのも仕事のうちなのだろうが、宮廷魔術師主席が出仕しないわけにもいかない。


 昨日は、出入りの商人を呼びつけてさまざまなものを買い揃えた。

 年頃の娘が使うための化粧品や髪の手入れのためのあれこれ、日傘や扇子といった小物類、お茶を淹れる練習のための茶器を購入し、新しい洋服や和服のための採寸もした。

 若い娘向けの本もいろいろと買うことになった。

 圭人としては、少女小説や少女雑誌の類などいらないのではと思ったが、真希子がどうしても必要だと主張するので、それも一応購入しておいた。

 しかし、少女雑誌の表紙――目ばかりが大きくてまつげがやたら長くて、腰も手足も妙に細い人物絵はどうかと思わずにいられない。これからの時代は一体どうなってしまうのだろうか。




 夕暮れ時、圭人は今日は早めに紫乃宮邸に帰宅することが出来た。

 先日、巨大な厄介事をおしつけてくださった女王陛下御本人は今日はさすがに大人しくしていたし、無茶苦茶なことも命じて来ることはなかった。

 また『レディ教育』にかかる費用の請求もあっさりと通った。

 一体どこの予算からどのように出ているのか気にはなるが、それを詮索したり心配してやる義理はないし、圭人の仕事でもない。

 優太には「で、レディ教育はもうできたのか?」などとからかいの言葉はかけられたので、とりあえず魔術師の杖ステッキで軍靴のつまさきを突いておいた。とはいえ、その報復に頭を鷲掴みされて髪を乱される羽目になったが。


 車をガレージに止めて、早々とネクタイを外す。

 和桜国では洋装のほうがより格の高い衣服ということになっているので、圭人も外ではスーツを着ているが、本心では和装のほうが好きだ。

 西洋への留学経験もあるが、その期間も和装が恋しくてたまらなかった。やはり、自分も根っからの和桜国人なのだろう、と思ったものだ。


「帰ったぞ」

「おかえりなさいませ」

「おかえりなさいませ、圭人様」

 さっそく玄関で出迎えた胡蝶に鞄と帽子を預けながら、尋ねる。

「いろははどうしている?」

「夕方まではお庭に出ていましたが、今はお部屋で過ごされております。……あの、圭人様、いろは様のことでもお耳にいれておきたいことがございます」

「何だ。いろはの教育に関わることか?」

「……はい」

「これ以上悪くなることはないと思っていたが……まぁいい、毒喰らわば皿まで、だ。言ってみろ、胡蝶」

 胡蝶は、その秀麗な眉を、困ったように下げている。慎重に言葉を選んでいるようだった。

「……いろは様は、その、和桜国の言葉を……読み書きができない、ようでございます……」

 胡蝶にしては歯切れの悪い言葉。

 だが、それはその内容からすれば当たり前ともいえる。

 この和桜国で、大晶の五年にもなるというのに、いくら庶民であるとは言え、母国語が読み書きできない者がいる、しかもその読み書きもできない娘をレディとして教育しなければいけない、というおまけ……というより本題つき。

 紫乃宮侯爵家の男児として生まれ、ありとあらゆる学問に触れることのできる環境で育ち、国費留学までした圭人には、このことが信じられなかった。

 たとえ千年前の大昔の話だったとしても、母国語が読み書きできないレディ――もとい貴婦人など、我が和桜国では聞いたこともない!!


「……」


 圭人は痛む頭を抱えたくなった。




「というわけで、文字が読み書きできないというのは本当か?」

「……」

 圭人はすぐにいろはの部屋に行き、本人に尋ねる。

 叶うことなら、違って欲しいと思いながら。

「……文字って……あの、紙の束にいっぱい書いてあるやつ?」

「……それだ」

 力が抜けそうになる。

「その……書いて、あるのが、文字だってことは……わかるの……でも、あれを読んだり書いたりは、できない……ごめん、圭人」

 いろはにも、そんな圭人の様子がわかるのか、つっかえつっかえ、申し訳なさそうに申告する。

「学校は、どうした」

「……あの……がっこうって、何?」


「……」

「……」


 これは、レディ教育どころではない。

 まずは女学校に行かせたほうがいいだろうか、教育資金も出ることになったのだし。

 ……いや、それはだめだ。まずい。かなりまずい。

 なにがまずいって、身分も金も親もない、さらに本も読めないときている無学の小娘と、貴族や王族の『お嬢様』たちが机を並べて学校生活というのは、いろんな意味でまずい。

 ……というわけで、女学校行きの案は没。


 と、なると。


 圭人はいろはを残し、急ぎ足で部屋を出る。

「征十郎!! 征十郎はいるか!!」

 大股で廊下を歩きながら大声で呼びつけると、すぐに有能なる執事は現れた。

「ご用は何でございましょうか、圭人坊ちゃま」

「できるだけ易しい、小さな子供向けの本を何冊かと、手習いのための道具を一式、できるだけ良い物を揃えろ」

「かしこまりました。ご予算はどうされますか」

「予算のことはほとんど気にしなくていい。いろはの教育資金が出ることになったからな」

「それでしたら、遠慮なく使わせて頂くといたしましょうか」



 女学校が無理なら――紫乃宮邸で読み書きを教えるしか、ない。

 レディへの道のりは、果てしなく長いだろうが、まずは一歩を踏み出さねばどうにもならないのだ。




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