やることは山積みで
いろはの髪を切り終わり、片付けも済むともう朝に近いのではというぐらいの時間だった。
圭人は明日が休日で幸いだと思った。
職務上、睡眠時間を削るのには慣れているが、さすがに今日がこれで、明日も仕事ではかなり辛いものがある。
いろはが大きくあくびをしたので、メイド長の胡蝶に彼女の部屋が整っていることを確認してから、部屋に案内することにした。
彼女はまだ十四歳なのだ。よい成長のためにはよい睡眠は欠かせない。もちろん、美容にもだ。
「うん、そろそろもう自分でも驚かなくなってきたと思ったけど……さっきのお風呂場もすごかったし……でもね、うん、この部屋が自分の部屋だって言われるのは、さすがにびっくりするね……」
メイド達が開けたドアの向こう――今日から自分の部屋になるところを見て、いろははびっくりしたというよりは呆れたように、そう言った。
その部屋は、もともと女性用の部屋として作られたため、壁紙がクリーム色の地にピンク色の薔薇のつぼみ模様が散りばめられたもので、大きな窓に下がったカーテンもどこか蓮の花を連想させる落ち着いた濃い目のピンク色だ。天井にははるか遠く砂漠の国で作られたという、刺繍が施された絹布が張ってあり、そこからすずらんの花のようなぷっくりとした形をした照明が下がっている。
さきほど急ぎで運ばせた家具はアール・ヌーヴォー様式の繊細で華のある品ばかりだ。とくに、中央にある大きなテーブルは表面の木目も施された彫刻も美しいなかなかの逸品。
あのテーブルでお茶や食事の礼儀作法の特訓をするのもよさそうだし、勉強をみてやるのも良さそうだと圭人は思った。
「それじゃあ、今日はもう遅いし、寝ろ」
「う、うん……あのね圭人」
「なんだ」
「……おやすみなさい、圭人」
「……おやすみ」
……このように、眠る前に「おやすみ」の挨拶をしたことなど、いつ以来になるか、圭人はいろはの部屋をあとにしながらぼんやり考える。
「……おやすみ、か」
そのまま、自分の部屋に入り、一番気に入っているソファに腰掛けながら、深いため息をついた。
「やるべきことは、山積み……だな」
ふと、洋酒がずらりと並んだ酒棚が目に入るが、こんな時には酒を飲む気にもなれない。
圭人はさっさと着替えてベッドに入る。
こんな疲労困憊の時は、きっと夢も見ずに眠れるだろう――
――どんなに疲れているときでも、どんなに眠り足りないときでも、無慈悲に朝は訪れる。
朝の光を浴びると目をさましてしまう自分の健康的な体質を、このときばかりは恨めしく思いながら、圭人は朝の支度をする。
今日は休日なので和装を纏うことにした。
圭人は外出や仕事のときは洋装を着るのだが、やはり和装のほうがどこか落ち着くものがあると思っている。
今日は銀鼠色の縞を着る。普段から着るものは胡蝶にまかせているのだが、そのセンスはいつも見事だ。
「いろはは、もう起きているのか」
「はい。とりあえずいろは様のお召し物は若いメイドの私服を借りて……。朝食はご一緒にとられますか?」
その質問に一瞬だけどうしようかと圭人は考えた。だが、すぐに、
「あぁ、二人で食堂で食べる」
「かしこまりました、そのように用意させます」
「紅茶は、今日はダージリンがいい、ストレートで」
「はい」
ダージリンは紅茶のシャンパンとも言われる。二人でのはじめての食事だ、せめて気分だけでも祝杯といきたい。
「おはよう、圭人!」
「……おはよう、いろは」
食堂では、すでにいろはが待っていた。
彼女は若いからなのか、タフなのか、それとも元々朝に強いのか、昨晩の睡眠時間の短さなどなかったかのような、元気の良さだ。
「あんなふかふかでふわふわでつるつるですべすべの寝床は初めてだった!」
「よくわからん、要領を得ないぞ。和桜国の言葉で話すように」
「え、話してるよ?」
「いいからさっさと席につけ……食事だ」
「はぁい」
朝食は大変だった。
当たり前だが、いろはは洋食のマナーなど知らない。
とりあえず圭人は自分の真似をして食べてみろとは言ったのだが、それでまともに食べられたら和桜国人は
パンは鷲掴みにしてまるかじりする、スープ皿を持ち上げてから直接スープをすすろうとする、などまだ可愛いもののうち。皿を割りそうになる、フォークやナイフを投げ飛ばしそうになるのはさすがに、まずい。
食事の礼儀作法は早めに叩き込まなければならない。せっかくの食事中に注意ばかり飛んで来るのは、いろはとしても辛いことだろう。
朝から精神的に疲れ切った状態で、食事後のダージリン紅茶を飲んでいると、征十郎が足早にやってきて、来客があることを告げた。
「こんな朝早くから誰が?」
「神衣さまでございます。神衣伯爵家の真希子さま」
「あぁ、真希子か……。何の用かはわからんが、まぁ通せ。すぐに向かう」
圭人は紅茶を飲み干して、いろはに部屋にもどって適当にくつろいでいるように言うと、すぐに客を待たせている応接間へと向かった。
「おーーーっほほほほほほほほほほほほほほほほほほ! 圭人様、おはようございます、ごきげんよう! 今日もあたたかで善き春の朝ですわね!!」
「……あぁ……おはよう……真希子……お前は本当、休日でも元気だな」
「当たり前ですわ!! この神衣真希子、いつも全力全霊なのでしてよ!!」
「あー……うん、そうだな、そうだったな。そうだった。で、一体何の用なんだ。こんな朝早くから人の家に」
「えぇ、朝早くからは非礼かとも思いましたが、急いだほうが良いかと思いまして」
「だからなんだ」
「私が、昔使っていた服を例のあの子にと」
「……えーと、今、なんて」
一瞬、言われた意味が分からなくて、聞き返す。
「ですので、私のおさがり服をあの子にどうぞ、と。洋装がほとんどなのですけど、よろしいですかしら? なるべく時代遅れでないものを選ばせましたわ。当家のばあやには『お嬢様の思い出の品が!』と泣かれてしまいましたけど」
「あー……そっちのばあやを泣かせたことはすまない、と……だが、感謝する。ありがとう、真希子。助かった」
圭人の目から見て真希子はとてもまともで常識的で、そして善性の持ち主であり、とても有能だ。その第一印象から誤解されやすいことが勿体無いとすら思っている。
「……感謝されることも、ございませんわ。当然のことですもの。……そ、それより、女の子には必要なものも多いのですから――」
「あぁ、とりあえず必要なものは昨晩一覧にした。いちおう、真希子も見てもらえるか? まだ抜けがあるかもしれない」
「えぇ、えぇ、よろしくってよ!! どんどんこの私、神衣真希子を頼るとよろしいのですわ!!」
「助かる」
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