二年目の秋と冬
茴香屋、開店の日
暑さもやわらぎ、秋も始まろうとしているある日、桜都でも小洒落た通りとして知られるところで、一軒の店が開店しようとしていた。
その店の名は『
香料の名前を店名にしていることからもわかるが、この店は珍しい舶来の香料はもちろん、その香料を元に作られるポプリなるものを買える――そういう話だった。
そしてこの店について、まことしやかに囁かれる噂があった。
それは――この店の
そして……その噂について確かなことが一つだけあった。
桜宮側がこの噂を『否定はしなかった』ことだ。
そんな事情もあり――まだまだ開店時間前だというのに、店の前には黒山の人だかりができていた。
「オーナー……じゃなくて、いろはさん! こちらのお花はどのあたりに置きましょうか」
「あ、その神衣家からのお花はこっちに置いてくれるかな」
「あと、こちらの差出人の名前がない立派なお花はどちらに」
「えぇと……それはお店の方じゃなくて、従業員控室のほうにお願い。花瓶はまだあったよね」
「はい、それは大丈夫です」
香りの店・茴香屋の開店の日――いろはは従業員たちと最後の準備に追われていた。
「おい、何か手伝うことは」
「無い!! 今日は圭人は出てこなくていいってば! 今日は、今日だけは私と従業員さんたちでやるんだもの!!」
……ちょっと従業員控室から顔を出しただけで、この剣幕での叱られようは無いのではないか、と思わなくもない。
仕方なく圭人は従業員控室に引っ込み、簡素なテーブル上に置かれた
従業員控室の小さな窓からは、初秋の風がゆったりと流れ込み、太陽の光がさんさんと降り注いでいた。
今日は――とてもいい天気だった。開店日和というものがあるとしたら、それは今日のことだろう――というぐらいには。
「失礼しますね」
茴香屋の従業員が、テーブル上に花瓶いっぱいに生けられた花を丁寧に置く。
それは、ピンクの薔薇のつぼみを中心とした豪華な花々。
圭人には、それを贈ったのが誰なのかわかっていた。
……女王陛下だ。
まさかこの従業員も、この花束を作らせたのが女王陛下その人だとは思っていないだろう。せいぜい、圭人あたりがいたずら心を起こして、名前付きの花束の他にもう一つ匿名の花束を贈った――ぐらいにしか考えていないはずだ。
あらかじめ女王陛下から知らされていた圭人も、実際に今朝届いた花束を見て真実だとようやく信じられたぐらいだ。
女王は――いや、樹乃花姫という御方は、ときどきこういういたずらめいたことをする。
「もうすぐ開店時刻ですが、紫乃宮伯爵……いえ、紫乃宮さんは本当に出なくてよろしいのですか?」
かちっとしたデザインのワンピースの上に、この茴香屋の制服である薄緑色のエプロンを着けた女従業員が気遣うように言う。
「あぁ。俺は出資しただけであって、ここはあくまであの子――いろはの店だしな。わざわざ開店の挨拶なんかをするのも妙だし、そもそも挨拶の言葉を考えて来てさえいないんだ。だが、あとで客として行って店の様子を見るぐらいはしようかと思っている」
「そうですか、いろはさんもきっと喜ぶと思いますよ」
「あぁ。…………当たり前だ」
「そろそろ開店時間ですよ―ー! 皆さん急いで急いで!!」
いろはの声がして、女従業員が店舗の方にばたばたと慌ただしく駆けていく。
従業員控室の扉越しにも、いろはの声や、従業員の声、お客として待ちかねているのだろう女性たちのきゃあきゃあという黄色い声が聞こえる。
「それでは、お待たせしました。皆様方、茴香屋にようこそ!!」
いろはが、そう告げて――
ひときわ大きく女性たちの歓声があがり、茴香屋は開店した。
従業員たちが、入れ替わり立ち替わりばたばたと倉庫代わりにもなっている従業員控室と店舗を行き来する。
店舗の方ではにこやかな笑顔で焦りや疲れなど微塵もみせないようにしている従業員たちだろうが、さすがに控室では殺気だった様子を隠そうともしない。
「えぇと、イランイランの精油……あぁあぁああぁ、もう、こんなに大量に注文がはいるなんて! 一体何に使うつもりよ!」
「ドライローズ、それも紅のつぼみだけのものってあったかしら……!」
「んもう!! この時期に、オレンジポマンダーなんてあるわけないし、作れるわけもないじゃないの、何考えてるのあの客!」
訂正…………彼女たちは、殺気だった様子を隠そうともしない、ではなく、間違いなく殺気をむき出しにしている。
仕事の忙しさと言うものは、こうも容易く人間を変えてしまうものなのか。
開店からしばらくして、昼食の時間も近づいてきたとき、いろはがようやく従業員控室に顔を出した。
「圭人ー……。お仕事って大変なんだねぇ……」
いろはは、これまでになくへろへろの様子で、椅子に倒れ込むように腰掛けてテーブルに突っ伏した。
「当たり前だ。今更わかったのか」
「うぅ……今度から、お仕事してる世の中の人達をもうちょっと尊敬することにします……」
いろはは今日は、少し大人びたスーツのようなかたちのドレス姿。そのモスグリーンのジャケットに合わせたのだろう、グリーンのヘアリボンもどこかヘロっとしおれていた。
「とりあえず……お昼ごはん食べなきゃ……」
「お前が一番先に昼食休憩か」
いろはが顔をあげる。
「うん……『いろはさんはまだまだ育ちざかりなんですから、ちゃんとした時間に食べて来てください!』って言ってもらっちゃって……お店、忙しいのに」
「よく出来た従業員じゃないか、いや、よく出来た人間というべきか」
「……だって、面接したのは圭人と、征十郎さんと、胡蝶さんだもの」
そんなことを言いながら、いろはは“食料保存”の魔法のかかったバスケットを取り出す。
この茴香屋がある通りには食べ物を出す店もあるし、少し行った通りにはいくらでも食事のできる店があるが、今日はこの店から離れるわけにもいかないだろうということで、弁当を持たせられたのだ。
今日の大きなバスケットの中身は、おにぎり弁当。ただしおかずは洋風。
量が多いのは、早めの夕食の分だ。茴香屋は、学校終わりや仕事終わりにも来れるようにと、やや遅めの時間まで営業することにしたのだ。
「圭人、おにぎりどれ食べる?」
「鮭があればそれを」
「鮭っと……あぁ、あったよ、どうぞ」
いろはが鮭おにぎりを差し出す。
それを受け取って、いろはが自分のおにぎりを選んで食べ始めるのを待ってから、圭人もおにぎりに口をつけた。
「ん、今日も胡蝶さんのつくったお弁当美味しい。梅おかか最高……」
「そうだな」
「それにしても圭人、せっかくのお休みなのにこっちに来てもらってよかったの?」
「こっちに来ないで、どこに行くんだ。一応、俺が出資した店だぞ、開店の日ぐらいはいなくてどうする。それとも、俺がいるのは嫌か」
「……嫌じゃない……というか……ありがとう、来てくれて……」
そこから、いろはは無言で猛然とおにぎりを食べて、さっさと店舗の方に戻ってしまった。
そんなに急がずとも、と思うのだが……オーナーだけがゆっくりと休んで飯を食べて、従業員たちだけを忙しく働かせるというわけにも行かないらしい。
とりあえず、やることのない圭人は“食料保存”のバスケットをしまい、少しの間だけ目を閉じて茴香屋の賑やかな声を聞いていた。
あの子は――いろんなことを知って、学んで、経験して――そして、大人になっている。
……その先は?
そんな疑問が頭をもたげるが、今は――そのことは考えたくはなかった。
なお、圭人はこのあと客として店の様子を見に行ったはいいが、女性客しかいない店内があまりにも居心地が悪く、すぐに出てきてしまった――
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