「いろは」



 こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ。

 圭人がいらいらとステッキを地面につく音だけが、桜宮おうきゅう内で御車止めと呼ばれる場所に響く。


 こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつこつ。

 あの会議がようやく解散になった後に、圭人はふらふらと自邸に帰ろうとしたところ、例の小娘の身柄を引き取って行くようにと言われてしまったのだ。

「わかってはいる、わかってはいるが…………。あぁ、できることなら……悪い夢と思いたい……」

 だが、春の宵の冷たい空気が頬にあたる感覚も、魔術師の杖ステッキを握りしめる感覚も、なにもかもがこれは夢ではないと告げていた。なにより、夢の中であるならその中で眠くなることなどは無いはずだ。


 こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ、こつ。

 杖をついた回数がそろそろ四桁にも届こうか、というところで――やっと彼らは現れてくれた。


「よう、宮廷魔術師主席どの。レディ・小娘ちゃんの引き渡しだぜ」

 尻尾のような長い後ろ髪をふわりとさせながら、現れたのは優太だった。

 その大きな背中に隠れるように、例のみすぼらしいなりをした小娘がたしかに……居る。

 ……やはり悪夢だと、思いたい。


「……優太、頼む。これが現実ではなく、悪夢なら悪夢だと言ってくれないか」

「大丈夫。掛け値なしの現実だ。ほれ、ここに受け渡し完了のサインしろ、万年筆は持ってるよな?」

「あぁ……悲しいことに、万年筆は持ってるぞ。……ほら、サインしたぞ、これでいいな」

「いいじゃねぇか。お前なら一人暮らしだし屋敷に部屋はいくらでも余ってるし、わざわざくちばしを突っ込んでくるような家族もいないだろう。陛下もお前のこと信頼してるし、適任だと思ったから任せたんだろうよ」

 優太はそのサインに不備がないか、何度も見て確認していた。

「うん、問題ないな。さ……あれがお前の身元引受人だ。目つきは多少悪いかもしれんが、心根はまぁ悪いヤツじゃあないし、家屋敷は立派なものだし、口うるさい身内も同居してないし、いじめられたりはしない、多分」

 優太にぐいっと背中を押され、小娘が前に出てきた。

 年の頃は、十三か十四だろうか。

 つぎはぎだらけでぼろぼろの丈の短すぎる和服を着て、手入れされた様子のないぼさぼさの髪をただ長く伸ばし、肌は薄汚れて、身体はむやみやたらに細く、ただ目ばかりがぎょろりと大きい。


 ……これの、どこをどうしたら、女王陛下に謁見できるようなレディになるというのだ……。


 ため息をつきたい気持ちを必死で抑え、自動車の助手席側ドアを開けてやる。

 今現在はレディでなくとも、自分だけでもこうしてレディとして扱ってやらねばこの娘はいつまでも薄汚い小娘のままなのだ。

「乗れ」

「……そこに座れば、いいの?」

「そうだ」


 その様子を見て、優太は手をひらひらさせてその場を離れる。

「んじゃ、俺は行くわ。こっちはまだ仕事あるしー」

「あぁ、優太もおつかれ」

「あ、やべ。これ渡すの忘れてた、受け取れ!」

 しゅっ、と優太が何か長細いものを投げてくる。

 それがしっかりした拵えの小刀だとわかったのは、反射的に腕を伸ばして受け取ってからだった。

「……優太お前!! こんなものを投げたら危ないだろうが!!」

「聞こえなーい!」

「……まったく、あいつは……」

 ぼやいている圭人に、小娘の視線が突き刺さる。

「……それ、私の。私の、お母さんのやつ……返して」

「……危ないことには使うなよ?」

「つ、使わない……!」

「わかった、ほら」

 小娘にどうやら母親の形見らしい小刀を返してやり、車のドアを閉める。

 圭人も運転席に乗り込み、いつものように魔力を注いでエンジンを起動させる。

 ハンドルを操作すると、車は滑るように移動しはじめた。

 景色がどんどん流れていく。

 桜宮おうきゅうを出て、桜都おうとの貴族街へ――


「ねぇ……えっと」

圭人けいとだ。紫乃宮しのみや圭人けいと。圭人で構わん」

「じゃあ圭人、あのね……」

「まさかのいきなり呼び捨てか……ん、まぁいい、なんだ」

「あの、さっきの尻尾みたいな髪をしたお兄さんが言っていたけれど――私、お家に帰れないの?」

「しばらくは、そうなる。期限は二年程度と聞いているが、もしかするとそれよりもっと長いか……」

「……」

 小さな泣き声が、狭い車内に響く。

 だが、彼女がなるべく泣き声が大きくならないように抑えているのだということは、すぐに圭人にはわかった。

「お前はこれから『教育』を受けてもらう。我が国の女王陛下にも謁見できるような、レディ……我が国風の言葉で言えば、貴婦人、あるいは淑女――になること。それが、お前が起こした騒動のけじめというものだ」

「……わたしの、けじめ……」

 泣き声が、また少しだけ小さくなった。

「……わかった……」

「いい子だ。名前はなんという」

「いろは……。田原たはらいろは……」

「そうか、いい名前だな、いろは。いろはは……今までどんなところに住んでいたんだ?」

 ぐすっと、鼻を鳴らして、いろはは答える。

「あの桜が咲く公園のある街の――皆が貧民窟って呼んでたところに、お家があったの。お父さんと、お母さんと、私のお家。でも、お父さんとお母さんは桜が咲く少し前ぐらいにに死んでしまって――それで、お弔いをしたの。それで、私、お花をお墓に供えてあげたくて、それで、お花を買うお金がないから……あの公園に――桜の枝を切りに――」

「……そうか」


 きゅっ、と一軒の屋敷の前で圭人はブレーキを踏んだ。

 そのまま入ってもよかったのだが、ちゃんと最初に見せておくのが良いと考えたのだ。


「そうか、いろは。今日からここが――お前の家だ」


 いろははその建物を――月明かりに照らしだされた西洋風のつくりをした立派な広いお屋敷を、呆然と見上げた。


「……嘘、でしょ…………」





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