いろはの日記より(その一)





「いろは様、紅瀬波くぜなみ家の翔太しょうた様がいらっしゃいましたよ」


 胡蝶の声で、いろはは漢字書き取りの練習用ノートから顔を上げた。

「翔太君来てるの? わ、じゃあちょっとまって……えっと、このページ終わってから行くね!」

「かしこまりました。では翔太様にお茶とお茶菓子をお出ししておきますね。いつもの小さい方の応接間ですよ」

「それでおねがいします、早く終わらせるから!」



 いろはは、丁寧に、だけど素早くページを漢字で埋めてしまうと、自分に与えられた部屋の隅にある鏡台にかけられたレースの覆いを外す。

 鏡に映っているのは、肩につかないぐらいの短い髪に白いリボンを巻いて、水色と白の縦縞模様の涼し気な着物に紺色の袴を合わせた少女。

 見た目としては、ごくたまに屋敷の窓から見かける人力車に乗ったお嬢さんたちと変わりない――といろはとしては思っている。

 ぱぱっと袖や袴の裾を直して、鏡の覆いを元に戻し、部屋を出る。


「えっと、小さい方の応接間だって言ってたよね……」

 この家――紫乃宮伯爵家はとにかく大きく、部屋数も多い。

 貴族の家としては別に大きくない方だと、圭人は言うが……貧民窟で生まれ育ったいろはにしてみればありえないほどに大きな家だ。

 使用人が多数いなければ維持できないのも、納得がいく。


「翔太君、いらっしゃい!」

 勢い良く応接間のドアを開け放ちながら、歓迎の言葉を口にする。

「こんにちは、いろはさん。お邪魔してます」

 それに応えたのは、赤みがかった茶色い髪の少年。

 名を、紅瀬波くぜなみ翔太しょうたと言い、圭人の親友の弟だ。彼は魔術師の道を志していて、圭人を師匠のように慕っているのだ。圭人も翔太のことを何かと気にかけていて、紫乃宮伯爵家の書庫にいつでも出入りして本を借りていっていい、と彼に言ってあるらしい。

 彼はいろはより一つ年下の十三歳だが、とても博識だし、人当たりがいい。なにより、いろはにとっては同年代の子と堂々とお話ができる希少な機会だった。

「翔太君は、今日は何の本を借りたの?」

「えぇと、北欧神話の本をいくつかお借りしました。同じところの神話でも解釈や訳がだいぶ違っていますからね」

 テーブルの上には分厚そうな本が何冊か積み重なっている。

「前に借りたやつは、もう読んじゃったの?」

「えぇ」

「すごいなぁ……あんなに分厚い本を、何冊も……」

「いろはさんも、ちゃんと文字を覚えればいくらでも読めるようになりますよ」

「うぅ……がんばります」

「大丈夫です、圭人先生がいろはさんにはついてるんですから! いいなぁ……圭人先生に教えてもらえるなんて、本当にいろはさんが羨ましいですよ」

「……じゃあ翔太君がレディになる?」

「あははははは、そればかりは遠慮しておきますよ」 


 そんな挨拶を兼ねた話をしていると、胡蝶がお茶とお菓子を運んできてくれた。

「今日は残暑が厳しいので、お茶はアイスティーにいたしました。お茶菓子はシュークリームですよ」

 アイスティーは澄んだガラスのグラスに注がれて、いていかにも涼しげだった。お茶菓子のシュークリームは、いろはも図鑑で見たことのある白鳥という鳥のような首があって、なんだか妙に可愛らしい。

「それじゃ、いっただっきまーす!」

「……」

 さっそくいろはは、白鳥のシュークリームを勢い良く掴んで、一口食べた。

「……」

 口の中に広がる、濃厚なカスタードクリームの味。シューのさくさくとした食感。可愛くて美味しいなんて、なんだかお得な気分だ。

「いろはさん……あの、シュークリームお好きなら、これも、どうぞ……」

「ん?」

 おずおずと、翔太が自分の前に置かれたシュークリームの皿を差し出してくる。

「翔太くん、シュークリーム苦手なの?」

「いや、苦手ではない、んだけど……その、白鳥の形してるのが、ちょっとね……」

 いろはは思わず、口の中のシュークリームを吹き出しそうになる。

 まさか、彼は男の子なのに動物の形をしたものが食べられないのだろうか。

「……普通のシュークリームなら食べられるんだよ? でもこういうのは駄目なんだ。こう、よくわからないけど、味より先に罪悪感みたいなのがあって……さ。誰にも言わないでよ?」

「言わないってば、言わないよ―」

「本当? 圭人先生にも言ったら駄目ですからね!」

「わかってるってー、じゃあこのシュークリーム、いただきまーす」

「うぁ……ちょっといろはさん、頭の方から食べないで……!!」

「えー? きっこえなーい!」








 




  




(田原いろはの日記帳より抜粋)


 今日のできごと。


 今日は、くぜなみしょうた君があそびにきました。

 しょうた君はいっぱいご本をよんでいるので、ものしりなのです。

 わたしにはしょうた君のおはなしがちっともわかりませんでした。

 でも、しょうた君はいつもわたしにもわかるようにといっしょうけんめいおはなしをしてくれるので、そのようすがなんだかくすぐったくて、うれしいです。

 こちょうさんが、つめたいお茶とおかしを出してくれました。

 しょうた君とふたりでいただきました。

 たのしかったです。



 今日は、圭人がおしごとはやめにおわってかえってきてくれたので、いっしょに夕ごはんをたべられました。

 メニューはコロッケでした。わたしはコロッケがすきです。

 圭人といっしょにたべるコロッケは、もっとすきです。


 そろそろよるのかぜがすずしくなってきました。

 夏もおわりなのでしょうか。




 おやすみなさい。また明日。





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